先週のビデオニュースは、菅政権の今後の為政力を吟味するかのように、件の「学術会議の任命拒否問題」が俎上に上がった。
いつの間にか正教授になった法学の俊英、木村草太氏をゲストに、懸案の問題がいかなる違法性があるのかを検証するという企画。
愚生にとっては、当時のそれを詳らかに知ることはなかった(御多分に漏れず、アメリカ大統領選挙に耳目を集めていたからだが・・)、立憲民主党の小西洋之氏が参議院・予算委員会で、過去の事案における法制局解釈を言質にして、菅総理が任命を拒否したことの違法性を問い質した。
【ダイジェスト】木村草太氏:学術会議の任命拒否問題で菅政権が掘った墓穴とは
▲投稿して1日後、YouTubeのダイジェスト版を添付した。前半部分のほんの一部分であるが・・。
(ことの次第を説明する小西氏へのインタビューは、こちらから⇒https://www.youtube.com/watch?v=bQMs4W-BqO8)
とにもかくにも、首相がくり返す同じ答弁は言うに待たず、法制局はじめ内閣側の勝手な解釈、自家撞着的な弁明をただただ聞くのはつらい。小西氏がその矛盾点をかみ砕いて指摘しても、事務方トップは何事もなかったように同一内容の説明でお茶を濁す。「一昨日来やがれ」と、こちらが啖呵を切ったら、ほんとに一昨日来るんじゃないか、それほどのふてぶてしさで呆れてしまった。
これはもう民主主義議会の崩壊を意味するのであろうか。いや、もっと違う次元の、私たちは新たな政治ショーを観ているのであろうか。
現時点でいえば、6人の候補者を認定拒否したのは、なんら違法性はないとして開き直っている菅首相。それを愚直に、さも法的に正しく繕っているかに見える内閣法制局、そんな構図が見え見えだ。
さて、正直言って愚生としては、ことの正否を判定できる基準、知識を持ち合わせていない。ビデオニュースを長年見続けてきたという、それだけの経験からこれを書いている。
浅学菲才の愚生がすこぶる案ずることがある。今回の案件があまりにも知性のレベルにおいて、官邸側がアプリオリに劣っている、官僚の知的劣化が甚だしいという、ビデオニュース側の断定というか見立てが、なんか気に入らないのである。
ゲストの木村氏をはじめ、ビデオニュースの宮台、神保氏の両氏ともに、任命の拒否がいかに違法として断定できるかを、木村氏の解釈を参照しながら確認していた。そのプロセスは逐次的に実証的であり、理路の通ったものとして愚生にも理解できた。がしかし、これで充分にこと足りる内容であったか、というと腑に落ちないものがあるのだ。
要は、学術会議という機関が、国政に対するある種の「アラート機能(チェック機能)」を持つか持たないかが問われている。さらに、その構成員の認定が形式的なのか、恣意的なのかが問われている。愚生はそのように理解した。(但し、内閣府の特別機関という位置づけ、その法的な規定がよく理解できない)
自分なりに調べてみたら、学術会議は戦後に発会し、当時の吉田茂首相が一目を置いたという。憲法における「学問の自由と自立」は、絶対的に保障されているから、首相がたとい認定権者と規定されていても、その正否を独断で決定できないようだ。中曽根首相の時代に改正があり、法整備をしたのかどうか、素人には確認できない。
今回の件は、どうやら事務方の杉田某官房副長官(近藤某長官も含む)という人物が、首相への忖度なのかご注進なのか知らないが、6名の候補者を外すことを提案したのではないか。理由は、国政への批判が厳しい、左派・リベラル寄り過ぎる論客だから、そんな理由が考えられるがどうだろうか。
国会では、認定を拒否した理由は何なのか論議されたらしいが、菅首相は「プライバシーの侵害にあたる」という理由で答弁を拒否したとのこと。これは誰のプライバシーを言っているのか、プライバシー云々がなぜ答弁拒否の理由になるのか・・。まるで判然としないではないか、なぜそこを突かないのか?(公人となれば、プライバシーなぞ無きに等しいとは言えないけれど・・)。
認定を拒否した「理由」を述べさせてみればよい、という当たり前のことをいう学者がいた。このGooブログのブロガーでもある森中定治氏である(生物学者・農学博士・日本生物地理学会会長)。そして、氏は以下の感慨を述べている。
歴史ある日本学術会議、あらゆる分野の日本最高峰の叡智の集団が、こんな新参の首相のジャブに苦もなく捻られたら、おそらく今後右傾化は眼に見えるように進むでしょう。 涙が出ます。 (引用した箇所を置換しました)
ビデオニュースでは、今回の認定拒否問題は、アプリオリに法律違反であるからという見立てから、現首相および官僚の知的レベルの低さ、学知的コンプレックスを揶揄した形で番組が終わっている。
これでは、知の優位性のあるものが、事実の正否を決定できる、そんな驕慢さがうかがわれてしまう。少なくとも、森中氏のように説明拒否の理由を述べさせよという「提案」まで考えるべきであろう。それが知性の働きというものではないか。
愚生は一方で、こんなことを考える。
「統治権力の法外なる強かさ」というものが、いま世界中で幅を利かせはじめている。それはあの、まだ敗北宣言をだしていないトランプ大統領がつくり出した「トランプ的なるもの」である。これこそが、統治権力を縛るはずの法制度をかんたんに超える「法外な強かさ」を生みだしてしまったと思えるからだ。
実証できないとみるや、すかさず「フェイクだ!」と言下にしりぞける。この厚かましさは、まさに「法外の強かさ」で、これはワールドワイドに浸透し、そしてポピュリズムとして定着してしまった感が否めない。これこそが由々しき問題だ。
これを知性の力で突破できる思うのは浅はかだ。知性の優位性で論破したとしても、実質的には無視される。だとしたら、権力機構は知性を、いとも簡単に退けたと同じことだ。知に長けたものが、知に劣ったものを鼻で笑ったところで、なんの有効性や威厳性もない。
菅首相が最終的に認定を拒否したのが事実なら、その理由を説明する責任が生じることを論う。それこそが知性であるし、認定するにあたっての法律があるのならば、その条文に但し書きを付与させるべきだ。例えば、「・・・認定を拒否することができる。そのときには、該当する根拠と理由を当人に申し渡し、その文書を公開しなければならない」というような、然るべき説明責任条項で規定したほうがいい。
知性の驕りが過ぎると、どれほどの凄まじい結末を生むか。知性が嘯きはじめたら、それを糾すことができるものは何か。それはまた、別の機会に譲りたい。
知性に黄昏があるとしたら、どんな風景を映しだすのだろうか・・。
まったくその通りだと思います。左派の言っていること、戦争は反対だ!学問は自由だ!・・それらは皆正しいです。問題は、私の言うことは正しいんだと言って、それだけで世の中に通っていくのかということだと思います。
極端な言い方をすれば自己陶酔です。相手がどう出てくるか考えていないと思います。だとすると、こんな相手を倒すことは赤子の手を捻るより容易だと思います。
私のブログに、このブログをご紹介させていただきたく存じます。
学術会議では、この問題を世界に発信して、外圧頼みの解決を企図していると、新聞で読みました。
どうなんでしょうか、自力でなんとかする道はないのでしょうか?
なんか有耶無耶に収束してしまう気がしてなりません。200人ぐらいもの学者がいれば、知恵の集積の力が生まれると思いましたが・・。
これはこれで、涙がでます。
ご著書の『プルトニウム消滅』は、いま取り寄せております。では、また!
ご著書は今日手元にとどく予定です。なので、大丈夫です。ご厚意、多謝。
FBはアカウントをもっていますが、現在まったく使わなくなりました。必要なときには、復活いたします。
ありがとうございました。
公文書もそうですが、歴史的文書はみな、4つの読み方があると言います。1.文字通りの解釈、2.それが何のために書かれたかという目的を解読するシンボリックなアプローチ、3.歴史的、地政学的な文脈、変化を踏まえた新しいパラダイムで読み直すやり方、4.そしてそれらから最も離れた「俯瞰的(菅さんも言ってるのでがっかりですが)」な視点から普遍価値に寄与する形での読み方、というわけです。
法学者たちの言っているのは文字通りの解釈で、彼らの方が「正しい」のは議論の余地がありませんし、テキストが書かれた当初の「目的」にも合致しています。ところが、政府の方は、「もう時代が変わった。新しいパラダイムで読み直す」と言っているわけで、すでに同じ土俵にはのっていません。こういう場合はもう、4つ目のメタ議論のステージを導入すべきかなあと個人的には思います。
私はいわゆる「聖典」や教義の歴史を比較しているので、こういう感想を持ちました。
(小寄道さんのブログから森中さんのブログを拝見して、そちらでもいろいろ考えさせていただきました。)
仰るとおりメタ議論のステージを設定できれば、俯瞰的なのか、深掘りなのかわかりませんが、徹底した議論を重ねられます。
現代の成熟した時代となれば、政治家であってもそうしたフィールドに踏み込むべきです。
ところが、宮台氏はじめ知識人の多くが政治家の知的劣化、学力不足をただ嘆くばかりか、低能だと罵って切り捨てる始末。
ならばと政治家は、鉄面皮でおのれのやってのけたいことを貫徹するでしょう。
もうそこには、主権者の存在を忘れてしまった不毛の荒野しかない。
なんとか知性を働かせて、学問の自由の素晴らしさを、学問が自立していることの尊さを、国民のすべてがごく普通に共有できないものかと思います。
そんな自分は、なにも学問もなく、世俗的に生きているしがない野郎ですけどね。
sekkoさまの記事を日々拝読して、何度もコメントを書いてみたいと願うことがあります。でも、教養というか知性のベースがあまりにも違うことを熟知していますので、なんども躊躇うことしきりでした。私も齢のせいか、劣化がはげしいんです。
こちらにまでコメントを寄せていただき、ありがとうございました。
普遍的なるものをもとめて、これからも精進してゆく所存です(ちょっと青いですかね)。