千葉県の女児殺害事件の容疑者が逮捕された。暗澹たる思いと同時に、容疑者の稚拙な言動や犯行に言い知れない恐怖を感じる。思い起こせば、世間を震撼させた秋葉原無差別殺傷事件、元厚生事務次官殺人事件の容疑者たちのそれも、彼らの「自我」の未成熟と短絡的な行動になにかしらの共通項がありそうな気がする。千葉県の事件ではまだ詳細のところはわからないが、加藤智大容疑者と小泉毅容疑者は、家庭内における不和とか親の過度な期待から脱落したということが分かっている。その確執を解消しないまま親から離反する(或いは見捨てられる)ことで成年に達した。いわば「自我」が未発達のまま社会人となり、自分にとって好都合なこと、自己の快感原則に忠実に生きていたのではないか。もちろん、そうした若者は大半であろうが、他者からの信愛を注がれることで、なんとか「自我」を維持している。加藤と小泉は、他者とのコミュニケーションが不慣れであり、両親との確執を自己の深いところに隠蔽してきたのではないか。
もう少し深くえぐって精神分析学的にいえば、フロイトのいうところの「超自我」の欠如があると思う。いまさらフロイトを持ち出して笑われるかもしれないが、自己を律する或いは自己懲罰する「良心」や社会的な道徳観は、「超自我」という審級としてのもう一つ自我があって成立するというものだ。この「超自我」は幼児期の親のしつけ、思春期の教師によって形成される。フロイトは伝統的なキリスト教文化における「神の声」に基づく良心ではなく、あくまでも身近な上位者が子供の欲動を制御することで「超自我」がつくられるという。
「もともとは自我の外部の権威に対する不安から、欲動の満足を諦めたのだった。外部の権威の愛を失いたくないがために、欲動の充足を断念したのである。」
したがって超自我が構成した良心の監視があれば、
「愛の喪失や外部の権威からの懲罰という外部から脅かす不幸がなくなったとしても、自我の内部に不幸が生まれ、一瞬もとぎれることなく、罪の意識の緊張を感じ続けることになったのである」(フロイト「文化への不満」中山元訳)
自己は一つではない。複数の自己がある。アイデンティティの確立はその複数の自己を統合し、社会に対して揺るぎない「自己」を便宜的にプレゼンテーションすることかもしれない。そのようなときでも「超自我」は審級として存在し、自己を冷徹に律し、時には施罰的にふるまうのである。自己のなかの「他者」なのかもしれない。
彼らの犯行動機はたぶん明文化できないだろうし、裁判ではもっともらしい法廷用語で語られるだろう。たぶん真の動機は「超自我」が受容されてのみ、はじめて彼らの口から少しずつ語られるはずである。
それにしても彼らの被害妄想感とか不合理な復讐感は、何がトリガーになって暴発したかだ。小泉容疑者は何らかの形で生活の糧を得ていたようだが、若い二人は職場を放棄した後に犯行に及んだ。仕事に不満があったとしても、それは彼らだけに限ったことではない。多くの期間派遣社員やパート従業員らは過度な抑圧やストレスを抱えながら仕事をしている。彼らの爆発的な攻撃欲は個人的な資質ではなく、やはり「超自我」の不在であり他者感覚の欠如だとしか思えない。
現代は父親と母親らは「友人関係」として子供と接することを望むひとが多いという。教師も同じく厳しい態度でこどもに接することはないという。どこで子供たちの「超自我」が形成されるのだろう。私の子供時代はまだ、父親や教師は威厳にみちていた。しかしそれはやせ我慢のようにみえた。こちらも「もっと楽しくやろうよ」とは言えなかった。そう、彼らのやせ我慢は、文化的な文脈というか伝統的なエートスによるものだと薄々感じ取れたからである。そういったものが時代遅れだと公言する親や教師もいて当然人気があったが、私は彼らを軽く見ていた。そういう自分は嫌だったが、間違っているとは思わなかった。
そして馬齢を重ねてきた私にしても、フロイトのいう「超自我」があると実感したことはないが・・。
ルソーがこんなことを書いている。
絶対的な孤独は自然に反する悲しい状態であることを知っています。情愛に満ちた感情が魂の糧となり、思想の交流が精神に活力を与えるのです。我々のもっとも快いあり方は、相対的で集団的なものであり、我々の真の「自我」(モア)は全面的に我々の内部にあるというわけでもない。けっきょく、人間というものはこの世ではそのようにつくられていますから、他人の協力なしには決して十分に自己を楽しむにはいたらないのです(エミール)