小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

我を忘れて、狂え

2018年01月20日 | 日記

 

なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え     閑吟集

 

大岡信の「折々の歌」に紹介されていた。室町時代の歌謡。この時代に流れていた無常観を突き放すかのような言葉だ

「なんだなんだ、まじめくさって。人生なんぞ夢まぼろしよ。狂え狂えと。『狂う』は、とりつかれたように我を忘れて何かに没頭すること。無常観が反転して、虚無的な享楽主義となる。そのふしぎなエネルギーの発散」なぞと、大岡らしからぬ情感を込めた言いきりは、限られた字数はあるといえ、古の歌謡をいっぺんに現世に転移する。

私にはなかったな、自分の人生のなかで狂ったように、我を忘れて何かに没頭したこと。いや、あるといえばある。それは他者への追随、オッカケみたいなもので、自らを創造の限界に追い込む、「死の壁」が消えるほど狂ったものではなかった。

ムッシュかまやつは「何かに凝らなければ駄目だ。狂ったように、凝れば凝るほど、君は一人の人間として幸せな時間を歩いていることだろう」と、プロの音楽家として自分を相対化できた後だから、こんなカッコいいフレーズを思いついたのだと思う。

車谷長吉は、文学者に成ること、成り方に凝った人だった。それを狂ったように実践して、文学を書いた人だった。その意味では、ムッシュも車谷もリア充だったかもしれない。

ゴッホ、ゴーギャン、彼らは確かに狂っていた。

日本では宮沢賢治がそうで、私だけかもしれない、そう思うのは。

石積みの美しい奇想の城を造った郵便配達夫シュバルは、狂うことをルーチンとしてコントロールできた狂人であった。幸せな人だったと思う。後追いなら、私でもできそうな気がする。が、絶対しないし、意味を求める自分には、飽きるよりもつらさを感じる。

5,6年前だろうか、どんぐりストラップをたくさん作った。また作りはじめようとしている。

 

 


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