孔子の言葉に「君子は小知できず、大受ができる。小人は大受できず、小知ができる。」というものがある。
安富歩の「ドラッカーと論語」によれば、「小知というのは、関連性と目的のないデータの収集のことであろう。それに対して大受というのは、データの中から関連性と目的とを見出して、その意味を受け取ることであろう。それは自らの認識の刷新を含んでいる」ということだ。この引用は、孔子が「インターネット」を語るとすれば、どういう見方をし、どう評価するかという仮説に基づいて、「論語」とドラッカーとの連関を考えた肝の部分である。
ドラッカーはコンピュータには動じることがなかったが、インターネットの出現にはかなりの衝撃を受けたそうである。理由は「外の世界から情報を集められる」ということだった。それは、つまり一見は「学習」と同じということ。学習も一義的には、外から情報を得ることである。しかし、その情報を貯めこむことではないし、咀嚼するだけでもない。情報を得るというプロセスのなかで、ある目的を設定して意味を探り、そこから得られる様々な関連する「知」の情報を得ること。さらにその「情報の知」をフィードバックさせて、新たに「目的」を刷新していく循環性がなければならない。それが真の「学習」であるが、「インターネット」には「知」の情報は無限にあるが、「学習」するという機能はない、とした。
ドラッカーは、その現実に驚嘆し、「インターネット」の膨大な情報量をまえに警告を発したのだ。多くの情報を収集して、人はそれを「知」の集積と思い込むのではないか。どこにも書いてはいないが、「小人」ならば、それを「知」の見せかけとするのではないかと・・。こうして「小知」ができあがる。つまり、関連性と目的のない膨大なデータ、そんな情報を収集したとしてもそれは知識にはならない。知った気になることでしかない。
安富歩はこのように結ぶ。「この道具を活かして、情報を集める場所をつくり、意味を受け取り、自らの認識の枠組みを刷新していく。そのような「大受」し得るものだけが、イノベーションを起こすことができる。それが君子なのだ」。ここまで来ると、孔子の「君子は小知できず、大受ができる。小人は大受できず、小知ができる」というフレーズが重く沁みこんでくる。
君子はこの場合、「経営者」とは限らない。「マネージメント」とは一般的には経営という意味だが、魚屋の主人でも、会社員、いや主婦であっても日常的に「マネージメント」をしているのである。ドラッカーは「マネージメント」について多くの著作を書いたが、それは企業経営者のためだけに書いたのではなかった。「マネージメント」の本来の意味、本質とは「人・物・金・時間などの使用法を最善にし、うまく物事を運営すること」。
まず人(客或いは社会・家族)について考えること。物事の動き、必要な金と時間の配分を設定し、実行への段取りを整え、理想とする目的・「大受」に向かっていく。これらの一連のプロセスが、「マネージメント」そのものなのだ。会社員であれ主婦であれ、「良き」という形容詞がつくけれど、彼らは「マネージメント」の達人として「君子」たりえるのだ。
一方、大企業の社長であっても、「君子」の足元にも及ばない「経営者」はいる。企業存続を謳うのはいいが、手段を選ばず利益のみを追求する、或いは「株主」を優先させるだけの企業目標しか考えない。「論語」から導かれる結果として、経営者だけでなく全社員は「大受」に至ることはできない。ましてや不正、偽装、隠ぺい等を行う、従業員への恫喝的命令、同調圧力などを行う、そんな「悪人」にも等しい経営者がいたとしたら悲惨だ。ブラック企業といわれる会社がいまだに日本には存在する。その背景と理由、入念な調査と分析をフリーの個人に任せてはいけない。マスコミのどこかが組織的に取り組んでこそ、ジャーナリズムの神髄が発揮させられるはずだ。明治という時代にはまだそれがあった、と桐生悠々はじめ気骨ある士々は言ったに違いない。
「論語」というテキストは今から2500年ほど前に孔子が書いたとされるが、過去においてその時代に則した読み方がされてきた。現代においても新たな解釈、読み解きがなされている。冒頭の安富歩からは、私のような素人にとって、目から鱗の新たな「論語」の読み、考えに気付かされた。もちろん、彼の読解は至上のものではないし、未来にあってもっと優れた学者が現れるだろう。それだけの普遍性を「論語」はもっている。
一昨日、本駒込の東洋文庫で「もっと知ろうよ儒教」という展覧会に行ってきた。(タダ券を新聞配達店からもらった)
▲東洋文庫の書架