小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

君子と小人

2016年04月28日 | うんちく・小ネタ

 

 

孔子の言葉に「君子は小知できず、大受ができる。小人は大受できず、小知ができる。」というものがある。

安富歩の「ドラッカーと論語」によれば、「小知というのは、関連性と目的のないデータの収集のことであろう。それに対して大受というのは、データの中から関連性と目的とを見出して、その意味を受け取ることであろう。それは自らの認識の刷新を含んでいる」ということだ。この引用は、孔子が「インターネット」を語るとすれば、どういう見方をし、どう評価するかという仮説に基づいて、「論語」とドラッカーとの連関を考えた肝の部分である。

ドラッカーはコンピュータには動じることがなかったが、インターネットの出現にはかなりの衝撃を受けたそうである。理由は「外の世界から情報を集められる」ということだった。それは、つまり一見は「学習」と同じということ。学習も一義的には、外から情報を得ることである。しかし、その情報を貯めこむことではないし、咀嚼するだけでもない。情報を得るというプロセスのなかで、ある目的を設定して意味を探り、そこから得られる様々な関連する「知」の情報を得ること。さらにその「情報の知」をフィードバックさせて、新たに「目的」を刷新していく循環性がなければならない。それが真の「学習」であるが、「インターネット」には「知」の情報は無限にあるが、「学習」するという機能はない、とした。

ドラッカーは、その現実に驚嘆し、「インターネット」の膨大な情報量をまえに警告を発したのだ。多くの情報を収集して、人はそれを「知」の集積と思い込むのではないか。どこにも書いてはいないが、「小人」ならば、それを「知」の見せかけとするのではないかと・・。こうして「小知」ができあがる。つまり、関連性と目的のない膨大なデータ、そんな情報を収集したとしてもそれは知識にはならない。知った気になることでしかない。

 

安富歩はこのように結ぶ。「この道具を活かして、情報を集める場所をつくり、意味を受け取り、自らの認識の枠組みを刷新していく。そのような「大受」し得るものだけが、イノベーションを起こすことができる。それが君子なのだ」。ここまで来ると、孔子の「君子は小知できず、大受ができる。小人は大受できず、小知ができる」というフレーズが重く沁みこんでくる。

君子はこの場合、「経営者」とは限らない。「マネージメント」とは一般的には経営という意味だが、魚屋の主人でも、会社員、いや主婦であっても日常的に「マネージメント」をしているのである。ドラッカーは「マネージメント」について多くの著作を書いたが、それは企業経営者のためだけに書いたのではなかった。「マネージメント」の本来の意味、本質とは「人・物・金・時間などの使用法を最善にし、うまく物事を運営すること」。

まず人(客或いは社会・家族)について考えること。物事の動き、必要な金と時間の配分を設定し、実行への段取りを整え、理想とする目的・「大受」に向かっていく。これらの一連のプロセスが、「マネージメント」そのものなのだ。会社員であれ主婦であれ、「良き」という形容詞がつくけれど、彼らは「マネージメント」の達人として「君子」たりえるのだ。

     


一方、大企業の社長であっても、「君子」の足元にも及ばない「経営者」はいる。企業存続を謳うのはいいが、手段を選ばず利益のみを追求する、或いは「株主」を優先させるだけの企業目標しか考えない。「論語」から導かれる結果として、経営者だけでなく全社員は「大受」に至ることはできない。ましてや不正、偽装、隠ぺい等を行う、従業員への恫喝的命令、同調圧力などを行う、そんな「悪人」にも等しい経営者がいたとしたら悲惨だ。ブラック企業といわれる会社がいまだに日本には存在する。その背景と理由、入念な調査と分析をフリーの個人に任せてはいけない。マスコミのどこかが組織的に取り組んでこそ、ジャーナリズムの神髄が発揮させられるはずだ。明治という時代にはまだそれがあった、と桐生悠々はじめ気骨ある士々は言ったに違いない。

「論語」というテキストは今から2500年ほど前に孔子が書いたとされるが、過去においてその時代に則した読み方がされてきた。現代においても新たな解釈、読み解きがなされている。冒頭の安富歩からは、私のような素人にとって、目から鱗の新たな「論語」の読み、考えに気付かされた。もちろん、彼の読解は至上のものではないし、未来にあってもっと優れた学者が現れるだろう。それだけの普遍性を「論語」はもっている。

一昨日、本駒込の東洋文庫で「もっと知ろうよ儒教」という展覧会に行ってきた。(タダ券を新聞配達店からもらった)

 

▲東洋文庫の書架 

 

 ▲裏庭の奥にレストラン兼カフェがある。通路の壁にアジアの諸言語による格言が刻印されている。カリグラフィ・デザインの美しさを再認識。中東の何処か忘れたが、縦組みのアラビア風文字があった。格言の意味を表す日本語がかすれて読めない。興ざめである。

以上、縷々分かっているかのごとく偉そうに書いてきたが、十分に「小人」であると自認している。そういう私だから、「論語」をはじめ多くの中国思想の深さ、凄さには、何度も認識を改めさせられてきた。五千年の歴史をもつ中国が、なにゆえ現在の金満資本主義に陥ったのか。その反動か、いま中国では仏教が静かなブームだという。好景気は終息し、金儲けに走った人々が悔悟と反省をしはじめた。で、仏門に入る人が増えているという。何故、儒教ではなく仏教なのか。実は仏教はビジネスと相性がいい。なにかバブル経済の残り香、抹香臭さが漂っていないだろうか。
 
私がこの稿を書こうと思ったそもそものきっかけは、「シェイブテイル日記」という経済がメインの記事を、匿名で描いている方のブログを読んだからだ。彼はたぶん市井の人であり、経済に詳しいがそれを飯のタネにはしていない。その彼が「消費水準指数」というマスコミではあまり見ないグラフ(統計局発表のもの)を使って、マイナス金利策導入の前後の経済状況と、過去35年間にわたる日本のデフレ経済の相関関係をうまく説明していたのである。すると、どこぞの誰かが「消費水準指数」は数理モデルとしてはある一定の指数を表すが、因果関係を証明するものではないとツッコミを入れてきた。別に炎上でもないので冷やかに傍観するが、どうも経済に通ずる方は「小人」が多いと思う。
マクロ、ミクロ、金融、財政、投資、為替、経済史、数理経済等々それぞれの立場からでしか「現実」を捉えない。インターネット上なのだから、経済以外の分野も視野に入れてほしい。たとえば「論語」は、奥深い「経世済民」の書でもある。

 
  
▲論語関係の本はつねに何冊か手元におきたい。モンテーニュと「自省録」は枕頭に。



         

▲「東洋文庫」への行き返り、道すがら見かけた花々。花盛りの季節だなと喜ぶ。ジャスミンが繁茂した家には驚くほかなかった。さすがの香しさも強烈すぎた。








 
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。