小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

鈴之助の系譜

2017年04月29日 | うんちく・小ネタ

 

前回の記事より続き

赤胴鈴之助という漫画のヒーローは、原作者の福山英一が「剣・禅・書の達人である山岡鉄舟」をモデルとして考えたのではないか。という所まで書いたが、実際の鉄舟がいかなる人物であるかはここで詳しくはふれない。

しかし、筆者がおもう基本情報は記しておく。

勝海舟の命をうけて、山岡鉄舟は西郷隆盛に会う。将軍慶喜の処遇について、山岡は幕府側として首肯できない官軍側(西郷隆盛)の要求を拒絶した。その時の当然かつ胆の座った鉄舟の応答に、西郷はふかく感心しただろうし、鉄舟を見込んだ勝海舟という人物の器量の大きさにも感服したと思われる。(※注)

今となってみれば、それは大物同志の会見のように思える。しかし、実際には二人共に侍身分としては低く、権力ヒエラルキーとしてはマイナーだ。世が世なら、この二人に、権力の移譲を任せている状態こそ異常であり、アンビリバボーだといえる。多くの禄を食む幕府の旗本たち、即ち権力中枢のメジャーたる家臣は、いったい何をしていたのだろうか。

身分の低い侍たちが、命を捨てる覚悟をもち、己の人間力をとことん見せて交渉した。それが明治維新という熱い、静かな革命ではないか。だからこそ海舟と隆盛の会見は成就し、いわゆる「江戸城の無血開城」が結実した。そう、考えざるを得ない。

新政府になってから、西郷隆盛は鉄舟を呼び出し、天皇の侍従になってほしいと依頼する。鉄舟も十年間という約束で、それに応えた。もし西郷が下野もせず、西南の役を起こさなければ、どんな明治時代になっていたか知る由もない。

さて、鉄舟は10年間、宮中への出仕の後、維新に殉じた人々の菩提を弔うため、明治16年(1883)谷中に全生庵を創建した。そのとき47歳である。禅や書と同じく剣の道への精進も励み、二年後の明治18年には一刀流小野宗家を継承する「一刀正伝無刀流」を開いた。その5年後に惜しくも、鉄舟は病で死去した。葬儀は、豪雨のなか全生庵で行われたが、会葬者は五千人にも上ったという。

以上のほかにも、明治維新後の三遊亭円朝や清水次郎長との関係など、男が惚れるようなエピソードにはこと欠かない。現代では埋もれた人になりかけているが、地元では筆者の年齢ぐらいの人々の間では、鉄舟はいまだ親しまれ尊敬される偉人といえる。



やはり、だいぶん脱線気味となった。赤胴鈴之助を生みだした福井英一の時代にあっては、鉄舟はそれこそ神格化されてもおかしくない人物であったと想像できる。かつて夢中になって読んだ赤胴鈴之助を、今となってみると全く思い出さないのだ。ところが唯一、覚えているのが剣を使わない「必殺真空切り」だ。

鉄舟の無刀流は刀を用いないという意味ではない。「剣を抜くことなく勝を得る」という極意、心構えである。孫子の「戦わずして勝つ」という考えに近い。要するに、剣という物理的な力の闘いではなくて、闘わない前に既に勝負の結着がついていること。

 ▲劇画調の鈴之助が放つ、必殺真空切り。

 少年たちの間では、刀を使わない「必殺真空切り」が評判になった。当時、チャンバラごっこで即使われたことは言うまでもない。もちろん、このスーパーな技は仲良し同志でしか通用せず、この技を使ったら攻守交替となる。

「必殺真空切り」という非科学的かつ超自然的な必殺技は、「少年ジェット」の「ウー・ヤー・ター」というミラクルボイスに継承された。原作者はいうまでもなく赤胴鈴之助を書き継いだ武内つなよし。1959年から雑誌「ぼくら」に連載され、しばらくしてテレビドラマで実写版で放映された。シェパード犬を相棒にした少年探偵が、ブラックデビルひきいる悪者たちと闘う活劇だった。

 少年ジェット・ミラクルボイス

少年といえども修練した技量の粋と、自身が持てる気力を一身に集めると凄い。それらを溜めて、一挙にエネルギーとして放出する。

この夢のような、気力を込めた必殺技はやがて昭和のバブル最盛期の漫画に継承された。その詳しくは、筆者はまったく知らない。がしかし、その「かめはめ波」なる必殺技は、かつて鈴之助の「必殺真空切り」を連想させるし、その源流ともいうべき山岡鉄舟の剣、乾坤一擲なる極意をみた。(笑)

 

       

 

(※注)慶応4年(1868年)、徳川慶喜は官軍に対し降伏し、恭順する意を固めた。全権を委ねられた勝海舟は、腹心の家来山岡鉄舟に手紙をもたせ、総督府参謀の西郷隆盛がいる静岡駿府に向かわせた。鉄舟は現地に着くや「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大声をはりあげ官軍陣地の中に入った。鉄舟に会った西郷は「江戸城の明け渡し、城の兵をすべて撤収させる、兵器すべてを差し出す、軍艦すべてを引き渡す、将軍慶喜を備前藩にあずける」という五つの条件を提示した。鉄舟は決然として「将軍慶喜を備前藩にあずける」ことだけについては拒んだという。西郷は「朝命である」と凄んだが、鉄舟は一歩も引かず「島津斉昭候が同じ立場であるなら、あなたはこの条件を受け入れることができるか」と反論した。西郷はその主張はもっともであり、死を覚悟して単身乗り込んだ鉄舟の迫力に、主君を守る忠義のみならず江戸百万の民の安寧を願う鉄舟の心に動かされたという。西郷は慶喜の身の安全を命に代えても保証すると約束した。これによって江戸城の無血開城への途が開かれた。西郷隆盛が新政府の要職についたとき、明治天皇を警護する侍従として元幕府側の山岡鉄舟を抜擢したのも、まさに駿府での一件があったからに他ならない。

 

 

 

 

 

 

 


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