ハラリの『サピエンス全史』を持ちだすまでもなく、農業と定住生活は不可分の関係にある。食糧を安定的に確保できるのは、支配者・権力者にとっても都合にいいことだ。だからこそ、古代の権力者は、奴隷を土地に縛りつけ「農民」に仕立てあげた。
ジェームス・C・スコットという歴史人類学者の『反穀物の人類史』という著作にも、古代国家の成立は農業生産こそが重要な基盤だとしていた。
メソポタミア、エジプト、インダス川流域、黄河など初期の文明国家はどれも驚くほど共通点がある。いずれも穀物国家で、小麦や大麦、黄河ではヒエやアワなどの雑穀も栽培した。その他の初期国家もそのパターンを踏襲した。新大陸ではトウモロコシという穀物だけでなくジャガイモにも依存し、それらはヨーロッパ大陸の新たな食糧源となった。(水稲、豆類、バナナなどは後発であり地域限定作物とされている)
穀物と国家がつながる鍵は、穀物は目で測定でき、分類・評価、運搬・貯蔵しやすいからであり、すなわち「戦争」や「災害」への準備に有効だったからだとする。国家としての繁栄と、権力を維持することは、穀物の生産・管理そのものに直結していたのである。
「農民」たちに視線をもどせば、その土地に縛られ国家権力に管理されても、家をもち子孫にまで安寧がもたらされるならば、支配者への恭順は幸せなものとなろう。作物をなす土地に愛着をもち、災害や疫病に逢わぬよう神に祈る。そんな信心ふかい農民たちを眺めて、権力者はおのれの治世に酔いしれたかもしれない
しかし、土地に縛られて、自由に移動できないことに心理的な重圧感を感じた農民はいたはずだ。もとは狩猟の民、流浪する民もいたに違いない。現代にだって、生まれ育った土地に愛着を持つとしても、一生そこに留まることを運命づけられるのは、居たたまれない不自由を感じる市民がいても不思議ではない。
哲学的な意味での「自由」という概念は、理由なく居場所を限定されることの不快感から芽生えてきたのではなかったか・・。カフカの『城』や『審判』は、まさにそのメタファーとして読まれた。
今回のコロナ・パンデミックでは、世界の誰もが一様に「移動する自由」を制限されたわけで、特にロックダウンによって自宅に自粛させられた都市生活者、とりわけ欧米の市民たちは、政府の権力というか強制力の凄さを、まざまざと見せつけられたと言っていい。
フーコーが近代における刑罰の本質を「拘束と監禁」だと指摘したように、つまり「移動する自由」を奪われることこそが生存権を侵害される気になるのも無理はない。もっといえば、「自粛」や「行動の制限」に、恣意的な権力圧を感じる人びとが大規模な暴動を起こせないほどに、新型コロナウィルスに畏怖していたのだ。
確かに新型コロナウィルスによる死者数は戦争のそれよりも多い。その「悶死」は凄まじいものだと喧伝されたし、それゆえ、欧米諸国で発せられた「非常事態宣言」は、スウェーデンを除いて、多くの市民は割と抵抗なく受け入れた。それが罰則をともなう厳しい法規制、民主主義的手続きのない一方的な断行があったとしてもだ。
家族の死に目にも合わせてもらえない、かつ葬送の儀礼が省かれるという「異常」事態の出現に、哲学者アガンベンは異を唱えたこともあった。それさえ炎上案件になった。
各国の判断基準は必ずしも科学的根拠に依拠したものでない(と思う)。信ぴょう性を担保するものは示されなかったし、人々の不安心理につけ込んだ国家統制のシミュレーション実験に利用されたのではないか、そんなまことしやかな風聞もあったのだ。それを裏付けたかのように、トランプ前アメリカ大統領や極右と言われたブラジルのボルソナロ大統領は、ウィルスの脅威なぞ存在しないと息巻いた(現在の惨状をみれば、彼らこそが科学を蔑ろにし、新型コロナの恐怖をさらに浸透させてしまった)。
第2波のときのメルケル首相の声明は、アメリカやブラジルの失敗を受けての真摯な内容であり、前向きな緊急事態の発令だったと世界から肯定された。この愚生からして、ある種の感動をおぼえたくらいに、国家元首の言葉は、その使い方や話法で信任を増すものだと認識できたくらいだ。
ここまで書いてきて、つい最近『ノマドランド』という映画が公開されたことを知った。題名がしめすように、本稿のテーマと重なっており、また主演がフランシス・マクドーマンドであるから、ぜひとも映画を観てからもう一度再考してみたいと思う。映画監督も中国系の女性で、今日のアメリカが抱える問題をえぐるものらしい。トレーラーのようなものがYouTubeにあったのでそれも載せておく。『ノマドランド』特別映像<Pioneers In A Modern America>