前記事ですこしふれた映画『ノマドランド』を観にTOHOシネマズ上野に行った。先週の金曜日に公開され、アカデミー賞の各部門にノミネートされているという触れ込みにも関わらず客席は2割程度の入りだった(ちなみに、本作は2021ゴールデングローブ賞の作品賞と監督賞を獲得)。
監督は中国生まれのクロエ・ジャオという女性で、大学を出てから5年間ほどノマド的生活をした経験をもつ。前作「ザ・ライダー」は、中西部に生きる現代のカウボーイの姿を描いた映画とのこと。その意味で『ノマドランド』とつながりがある。
そもそも本作は、作家ジェシカ・ブルーダーが2017年に発表したノンフィクション『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』を原作としている。この本を読んで心を動かされ、映画化権を買った製作者が、この映画の主演をつとめたフランシス・マクドーマンド(※補記)である。
「主人公のファーンは会社の倒産で職を失い、癌で夫を亡くした61歳の女性。彼女は致し方なく、愛着のあるぽんこつキャラバンに夫との思い出の品を積み、当てのない旅に出る」。そんなオープニングから、アメリカの深刻な社会問題つまり所得格差、人種差別、極端な医療制度などを抉る映画かと思いきや、まるで違った。実はいい意味で裏切られ、打ちのめされた。
ノマドとは遊牧民のことをいうが、ふつう中央アジアやアフリカの牧畜で暮らす人びとをさす。60年代、アメリカではヒッピーと呼ばれ、日本はフーテンだった。ちょっと文学通では、デラシネ(根無し草)なる言葉が流行った。(ヨーロッパにおける「ジプシー」も同じくノマド的な放浪者で、呼び名が変わったが失念した。残念ながら、彼らは南ヨーロッパの観光地においてマフィアの一員と見なされている)
アメリカの中西部には、グランドキャニオンはじめ世界自然遺産が多い。その周辺には砂漠や荒地がひろがる広大な土地があり、かつての開拓者のように放浪する人々が暮らしている。どういうわけか、ほとんどが白人である。つまり祖先がヨーロッパからの移民だった人々で、かつてはカウボーイ、パイオニアなどと言われた人たちの子孫であり、何かを求めて流浪するDNAが刻印されているのかもしれない・・。
現代の彼らはいま、馬や馬車には乗らずキャンピングカーでアメリカの大地を移動している。着いた土地が気に入れば、専用のオートキャンプ場に車を停めて気ままな生活をおくる。黒人を見かけないのは、たぶん何かの理由があるはずだが、詳しくは分からない。映画では黒人やアジア系の有色人種がいるような気がしたが・・。(唯一、タバコをねだってきたメキシコ風の青年がいて、ついでにライターも進呈する。後半で彼と再会し、石飾りの埋め込んだライターをプレゼントされる。そのシーンが何故か印象的だった)
くそ暑い季節になる前に北に行き(最北はアラスカ)、寒くなれば南の温暖な南部アメリカをめざす(テキサスやメキシコ近く)。同じノマドでも、働かないと現金がない貧しい者もいれば、退職金と年金をやりくりして暮らすものまでさまざまだ。ヴァンを改造して二人がやっと寝られる中古のキャンピングカーから、まるで2LDKのマンションのような大型のトレーラーまで、多種多様なクルマが集まっている。
それだからといって、裕福か貧しいかの違いで彼らに階層(ヒエラルキー)があるわけではない。また、ほとんどが白人だと前述したが、ていねいに思い出せば配偶者がアジア系であったり、ヒスパニックだとわかる人たちが混じっていた。実際の出演者も、そうしたノマドであり全員が素人である。エンドロールでは役名と実名が一致していた(二人を除いて)。彼らがどんな人たちなのか、映画のなかに端的なセリフがあったので、忘れないうちに引用しておこう。
「楽しいことは、『外』にあるんだ」
「私たちはホームレスじゃないハウスレスなだけよ」 「ホームは心のなかにしっかりあるのよ」(これはロックバンド『スミス』の歌詞の一部※)。
この映画は、原作のドキュメンタリーを尊重した映画化であり、ストーリーらしき起承転結がない(ないようなあるような※)。主人公ファーンをめぐるエピソードの積み重ねだ。例えば各地を放浪する高齢者としてお互いを気づかい、助け合い、足りないモノや情報を交換し合うこと。少しの友情と感謝・・。誰もが仲間意識をもち、絆をもつべく集会にも進んで参加すること。他者を信頼する大切さ、過剰な期待への慎み・・。彼らは一様に自分の車にもどれば孤独であり、自分自身と向き合い過去の記憶になかに閉じこもる。
例外的なエピソードもある。主人公ファーンに思いを寄せるミュージシャン風の男性が現れ、彼の家族に招かれ素敵な感謝祭を過ごす。ある時は、ポンコツ車の修理の借金を無心するために妹(姉※)の家を訪れる。いずれの家も落ちつきのある上品な「アメリカンホーム」である。しかし、ファーンは居たたまれない違和感を感じるのか、黙ってそこを去る。妹(姉※)には挨拶したけど、実に素っ気なかった。
そのほか、キャンプ場の清掃の仕事、農作物(ビーツ)の収穫、ハンバーガーショップ(レストラン※)などのアルバイトのエピソードがでてくるが、そこでの人間関係はきわめて希薄だ。キャンプ場での交友関係と呼べるものも、2,3人の高齢女性たちだけ。そうした関係もお互いに深入りせず、せいぜい物々交換するぐらいの「淡い絆」を保つ。
はた目から見れば、実に寂しく哀れな印象をもつだろう。彼女たちの未来には、困難でつらい環境があり、その果てには厳しい「死」が待っている。しかし、なぜかネガティブな暗い感じがしない。孤独で身寄りのないファーンは、誇り高く気品に満ちた女性だ。彼女に同情したところで、軽い感じであしらわれる感じがする。
年老いた女性たちをこんなにまで働かせ、ハウスレスの高齢者をうんだアメリカ政治を全力で非難したいところだが、映画は虚構だとしても彼女たちは余りにもタフで潔い。政治にも頼らない、芯の強さを感じてしまう。
逆に高齢の男たちの影が薄い。自信を失い、弱気なのか徒党を組みたがる。そしてホームシックやロマンスを求めたがっている。もっとも残念なのは、日々の実生活をこなしていくスキルもなさそうだ。女性のマルチタスクを学ぼうという向上心の欠けらもない。
海外からやって来た移民たちのアメリカンドリームとは、郊外に芝とプールのある家をもつこと、車や高級な家具に囲まれた生活をおくること、つまり物質的な豊かさであった。現代のアメリカ人はもはやそうした物欲は失い、心の豊かさという精神的なもの、宗教以外の何かに新たな価値に見出したのか・・。
この映画が撮られたのは、トランプ政権下の時期であり、プアホワイトなどの経済格差問題、「Me too」や黒人差別などの人権問題がクローズアップされはじめた頃と重なる。そうした社会的なテーマの一切が捨象されている。
最後になるが、『ノマドランド』にほのぼのとしたハッピーエンドはないし、自立した女性の何かカタルシス的な結末を望まない方がいい。
背景に時おり流れるセンシティブなピアノ音楽はちょっとウェットだ。そんな叙情的な音楽が相殺されるほど、周囲の大自然はあまりにも広大で、砂っぽく乾いている。遠景に連なる山々の景色とオレンジと青みの空が溶けあう。なんか心の奥が絞めつけられるように美しい。安直な詩情はすぐに消えて、緑も水もないアメリカの厳しい大地の美しさに飲みこまれる。
『ノマドランド』予告編
(※補記)
フランシス・マクドーマンドは今年で63歳になるが、40歳の頃にノマドのようになって全米各地を車上生活したいと思ったそうだ。コーエン兄弟の映画『ファーゴ』を観て以来、小生が最も大好きなアメリカ女優である。ハリウッド的な美人とはいえず、フェミニンな女らしい演技がうまいわけではない。彼女の魅力は、微笑みの少ない無骨な表情と、何か秘めた矜持をもつ男顔負けの存在感である。女優としては特異な存在であり、個性が際だつ役でないと彼女の本領がでないと思う。
マクドーマンドについて今回初めて、その出自など調べてみた。シングルマザーから生まれ1歳のころに養子として牧師のファミリーの家族となった。どんな家庭環境とか育ち方をしたのか知らない。名門イエール大学で演劇を学んだとかで、その意味ではエリート的な生活をおくったのだと思う。彼女はコーエン兄弟の兄ジョエル・コーエンと結婚する。そのときは二人とも下積みの生活をしていた。
映画『ファーゴ』(1996)はコーエン兄弟の名を不動のものとしたし、主演のマクドーマンドもアカデミーの主演女優賞を獲得した記念的作品だ。
『ノマドランド』の前に『スリー・ビルボード』という中西部らしき田舎町を舞台にした映画がある。この作品でもマクドーマンドはアカデミー主演女優賞を獲得した。人間は悪いこともすれば善いこともする、つまり善悪両面をもつ人間性を見事に表現した異色のサスペンス映画だ。映画の主人公は設定はだいぶ違うのだけれど、『ノマドランド』につながるような女性の自立、新たな女性観が表現されている。恥ずかしながら未見だったので、昨日はじめてビデオ鑑賞した。この作品についてもいつか言及したい。
テレビドラマシリーズ「オリーヴ・キタリッジ」は、上質なドラマでマクドーマンドの個性的な演技が素晴らしい。妻、母親、祖母として成長する主人公はやはり特異な性格というべきか、ステレオタイプではない意志の強い女性像を演じた。これについて3、4年前に記事にしたのだが、納得いかない出来でボツにした。復活を期したい。
(追記:ビデオで再び鑑賞した。事実関係で違った部分があり、打ち消し線にて訂正した。(※)内は正しい表記。たとえば「姉」を「妹」と表記していた。記憶違いであり、筆者の凡ミス&耄碌のせい。お詫びして訂正しますが、追加の訂正があるやなしや・・。)