「学術会議を今後どう扱うか」を決める、自民党の選りすぐりのプロジェクト・チームは、渾身の提言案をまとめたらしい。たぶん菅首相の肝入りだから力が入ったろうし、ご指名にあずかったことで勇気リンリンと協議し、かつ忖度した結果だとおもう。12月10日の新聞のリードには、こう書かれていた。
・令和5年9月を目途に学術会議を独立した法人格を持つ組織とすることなどを求めており、週内にも政府に提出する方針。(中略)「国民に開かれ、政策的に連携のとれた(アカデミアが)世界の潮流だ。そういう方向への活躍を期待して提言した」と語った。(産経新聞)
・高い独立性を求める学術界の意向を逆手に取り、政府機関からの切り離しを迫る姿勢を鮮明にした。議論の発端となったのは菅義偉首相による新会員任命拒否だが、違憲・違法の指摘が根強い人事介入の問題から、論点を組織の見直しにすり替えたい思惑が透ける。(東京新聞)
右と左では受け止め方がこうも違うのかという、マスメディアの記事である。要は、内閣府に所属していた日本学術会議を、行政機関から出て行ってもらうということだ。文部省の外郭団体である「学術振興会」のように、行政独立法人として扱いたい旨の提言をまとめたということか。
そもそも前々回の記事にも書いたが、日本学術会議なるものは、当時の自民党首相吉田茂の声がけがあった。学問の凄さ、学者の偉さを尊重していた吉田は、知の専門家・学者を利用したいと、政治家ならではの算段や知恵があった・・。いや、素直に科学者の客観的な判断を仰ぎたかった、と思いたい。
そうして、学者の方々には僅かながら報酬を払いますからと年次予算化した、つまり、学術会議会員になれば準公務員的な待遇を保障した。それが「日本学術会議法」として制定された背景だ。
小生のような素人までが、ある種の危機感から、その法律を確認した。
第一章の「設立及び目的」その第二条 には「日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。」と、真っ当な理由が掲げられていたが、注目したのは「第二章 」の「職務及び権限」における「第五条」だった(別記)。
かつての自民党には、吉田茂はじめ、物ごとの本質を見極めるためには科学者の力が必要だという道理を弁え、また謙虚さがあった政治家が多くいた。物ごとの専門領域において客観的な方法論をもち、系統的に研究している科学者の知性や感性は、政治家には持ち合わせないという、それこそ客観的な見方を彼らはしていたのだ。政治家はいわば文民であり、客観的かつ合理的な判断となると、完璧には至らないという、自らを省みる度量があったのである。
いやいや、重々しい名称を冠した学術会議という組織が生まれたのは、敗戦による惨禍を経験したことの猛省があったからではないだろうか。このブログではなんども先の戦争の「本質的失敗」に言及している。相手の戦力を調査し、分析せずに、自軍の能力を過信して机上の戦略をたてた。たぶん負けるだろう覚悟の神頼みの出撃。負けた事実の反省、分析はない。まさに科学するという客観的な思考と「plan-do-see」の欠如だ。
対象となるものを分類し、系統立てたり、また過去に遡ってデータを分析する、系譜としての体系を検証する研究などは、やはり専門家にまかせて、彼らの意見や具申に素直に耳を傾ける。こうした科学的思考を軽んじるのは、宮台真司がいみじくも愚弄したごとく、菅首相の学力のなさ、学歴コンプレックスがなせるわざなのかもしれない。
人に批判される、間違いを指摘されることの耐性がないのか知らんが、安倍元首相以降の政治家たちは、どうもイエスマンばかりが集まってくる。自分たちの意見や方策が、まさに万難を排して都合よく実現してゆくことばかりを考えている。彼らは何を尊重して、政治家を志したのであろうか。
この国をどんなものにし、人々の安寧をもたらすために、政治家として拠ってたつ彼らの「大義」を、どうか聞かせてほしいものだ。彼らにしてみれば、「大義」などなくても政治はできると嘯くのであろう。なぜなら、科学的な思考がないからだ。
「大義」は科学する心があってこそ、その人の心に宿るものではないだろうか。
(別記)「第二章 」の「職務及び権限」における「第五条」、「日本学術会議は、左(下記)の事項について、政府に勧告することができる。」
一 科学の振興及び技術の発達に関する方策
二 科学に関する研究成果の活用に関する方策
三 科学研究者の養成に関する方策
四 科学を行政に反映させる方策
五 科学を産業及び国民生活に浸透させる方策
六 その他日本学術会議の目的の遂行に適当な事項
※政治家の判断や行動に支障をきたすものはなにもない。行政の身近に、科学者の提言や発案がスピーディに届く機関があるのはよい。それとも、最近は形骸化していたのか・・。ポストコロナの今後、科学者の判断は疎んじたいという下心はなんだろうか?
科学者をただ礼賛したいのではない。彼らもまた間違いを犯し、彼らの「大義」を問われたときがある。私たちはそうした歴史から逃れることはできない。今どきの子どもたちは、「末は博士か、大臣か」を知らないから幸せなのか・・。むしろ、どちらも成りたいと思わないほどに、人気がないそうです。「末は思いやられる」と、困ったものだ。
この件について、いろいろな視点から書かれているようで参考になりそうなものがありました。ご参考までに。
http://article9.jp/wordpress/?p=16023
為政者が独裁をめざすとなると、まず手始めに学問の自由を奪う、そして知識人を排除する。これは世のならいというか、歴史の必然だとしたら恐怖以外のなにものでもありません。
隣りの大国、習近平もおなじことやってますから、今後の東アジアはどうなるのやら・・、心配です。
「法と民主主義」の緊急特集は是非とも読むべく申し込みました。
別ブログ「たかが、かた」の記事は、たいへん参考になりました。