小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

信じること。束の間にみた哲学

2017年09月17日 | 日記

 

人間の望ましい姿は、アリストテレスによると「理性的」ということであり、それが今日の、人間の不幸のもとになったらしい。

では、情動のおもむくまま生きることは幸せを呼ぶのか・・。そうは思わないのだ、私は。

中庸が至上とは言わないが、少なくとも「自覚的」でさえあれば艱難をやりすごし、辛苦を耐えうるのではないか。いわゆる「ネガティブ・ケイパビリティ」に寄り添うことができる気がする。

とは言いつつ、いつからか、信じることは理性の働きにバイアスをかけるという意味をもつようになってしまった。信じることは、理性の働きを決して妨げないとおもう。場合によっては、理性を助け、情動を勇気づける。

人は、信じることでしか見えてこない世界の存在を、どこかで強く感じている。それは理性で把握できないと、自覚しているからこそ、世界はそこにある。

理性の優位をいう者の方が、理性の存在を信じていることを忘れている。

情動だけで生きている人はいない。それを誇る人を見たことはいないし、たとえ口に出しても、酔っているときか、含羞にみちた冗談でしかない。

自分の眼でみえるもの、心で感じるものを信じるしかない。それは、子供でも老人でも同じだろうに。

 


▲信じることを即ち宗教だとおもう人にとって、自然はどのように映るのか、物質の集合なのか・・。


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