日曜日、信濃町の真生会館にて、竹下節子さんの講座に出席した。会館が主催する日曜講座の「聖霊について」の企画で、竹下さんは一日だけの特別講義をおこなったのだ。
主題は『アートと信仰とインスピレーション』。霊感なるものつまりスピリチュアリティは、人間の芸術的な活動につよい影響力をおよぼすという言説がある。さらにそれは、宗教的な信仰の生活とのつよい親和性を指摘され、かつ裏づけられてきた様々な学知がある。
歴史や文学を紐解いてみても、あるいは音楽・美術の作品に直に接してみても、スピリチュアリティの実存性は疑う余地はないと、愚生はおもう。そうしたスピリチュアルなインスピレーションは、現代においても発現しているはずで、特に、芸術家はそれを創作の淵源として受けとめているに違いない。
インスピレーションは確かに実存するもの、あるいは掛け替えのない生きた魂として、普通の人生をおくる私たちはそれを感得することができるのだろうか・・。もし、それを感じえたとしたら言語化できるものなのか。少なくとも愚生はそう考えつつ、竹下さんの話を聞いていた。
啓示、天啓のようなインスピレーションがとつぜん降りるとは、脳科学的にもいろいろな解釈がある。東洋思想においても、老子、荘子にそれに似たような考え方があった。宗教においては一神教とりわけキリスト教では、「聖霊が降臨する」という表現がなされている。
ある種の神がかった体験とはよく言われることだが、普通に暮らすなかでそんな経験をするひとはいない。ではまったく無縁なものなのか。あずかり知らぬこととして全く考える必要はないのか・・。
日々の生活においてそれは「よく生きる」ことに通じていく魂の何か、インスピレーションはそうしたものでもあると竹下さんはさりげなく説かれる。(実際にはスピノザの『エチカ』の倫理性、道徳的に自分を高めていくことなどにも言及されていて、かなり深い実相までも示唆されていたのだが・・。)
でも、アーティストとしてインスピレーションがどんなものなのか一応、例をあげて解説される。
講義前にレジュメをいただいたのであるが、そのなかにワグナーの言葉が引用されていて、なぜか心が鋭くえぐられるような箇所があった。
「信仰がない者の作品は芸術家の作品ではない。生を高め、大きく、熱く強くする生きた炎がないからだ。科学だけでは器用で整合性があるものしかできず、信仰だけが、超越に向かう叫びを生みだすが、世俗の耳には支離滅裂だと聞こえる。
真の芸術家だけが、科学と信仰という分かつことのできない賜物を結び付け芸術作品に昇華できるのだ。私に関しては、私は何よりもキリスト教徒である。私の作品のすべてはそのことにインスパイアされている。」(部分引用)
キリスト教はじめ一神教の信徒であるアーティストは、インスピレーションをまさにゴッドからの霊感としてとらえる強度が凄い。ワグナーのこの言葉は、私にとってまさに畏怖すべきものであり、キリスト教の峻厳さを感じて近寄りがたいのだ。
天才型か努力型の違いはあろうが「聖霊」として感応されたインスピレーションは、たとえば岡本太郎のように「芸術は爆発だ」という端的な言表もある。
また、レジュメのなかに紀貫之の『古今和歌集仮名序』も紹介されていて、それは竹下さんらしい秀逸な引用であった。
「力を入れずして天地を動かし目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ男女のなかをやはらげ猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり。この歌、天地の開け始まりける時よりいできにけり力」(部分引用)
いにしえの歌人(文化人)も、天地を動かす鬼神を感じてつまり天からの精霊を授かるかのように、歌詠みのインスピレーションを感じたということだ。
現代にあってスピリチュアリティ(聖霊なるもの)は、新興宗教のみならずこの資本主義の世界にあって、ある「目的」としてあるいは「役割」として認識され利用されてしまうことがある。極端に言えば、この消費社会のなかで、そのニーズがあれば商品として流通していくし、悪用される危うさもあるのだ。
現代に生きる我々は、芸術家が感応するインスピレーションの実体に迫れるものではないが、音楽でも絵画でも作品を通じてその一端にふれることができるとしよう。こうした話がこの日本の片隅に、竹下節子という人をとおして交わされる。まさしく至福の悦びであった。
▲ドン・ボスコ社発刊の竹下さんの新書シリーズ第4弾。奥付を見ると、2018年10月26日初版とある。出来立てホヤホヤだ!
▲ミーハー丸出しで恥かしい限り。またしてもサインしていただく。参加者全員に竹下さんからプレゼント! ヴェズレーのマリー=マドレーヌというメダイ(メダル)