書かれたものと、書きたいもの
言葉で書かれたものは弱い
多くの人々は人生そのものに向かう
人生はまず言葉よりも絶対的に強い(この世に絶対なものはない、という人にゴメン)
生々しく時に煮えたぎっている
色と匂いをたっぷりふくみ
熱狂する歓びや 嗚咽する悲嘆もあり
人生というものはなにしろ強い
書かれたものはしょせん書きものだ
文学も歴史も書きものだ あっ! 歌はちがうけどね
知識や想像力ときに教養とかモラルさえ求められる
人生にくらべれと七面倒くさい 余計な時間をくう
とはいえやっぱり書くことに執着している自分がいる
幾つ歳をとってもひと様の書かれたものは離せない
書いているときの自分その神経のはたらきが好きだ
書かれたものからの考える時間 ひとりの空間が好きだ
なんのかんのあって、長田弘の『一人称で語る権利』を引っぱり出して読んでいた。一度読んだいたはずなのに、長田が1978年のディランの東京のコンサートのことを書いていた。
「こんな夜に」というと、「君に乗れないなんて」という清志郎のフレーズを思い出してしまう。
ディランには「こんな夜に」という歌がある。
こんな夜に
きみがきてくれてうれしい
ぼくをしっかりつかまえててくれ
そしてコーヒーをわかすのだ
話すことがたくさんあり
おもいだすことがたくさんある
こんな夜にふさわしいことだ
長田はこの後、すてきな言葉でいろいろ綴っているのだけれど、この日のディランの印象を「こんな夜に」の歌そのものだと脱帽している。いや、シャッポは脱いでいないがディランの生き様の魅力にもう「なんも言えない」ことを告白している感じだ。
二人とも大好きだと、60過ぎた爺が書くことではない。箸にも棒にもかからない。まあ、「そんな夜」があってもいい。
最初は詩を書くつもりが、真似すべき人生の一端にふれて、それもまた「こんな夜に」なったのだから・・。岡潔のような数学的・論理的思考力があれば、「こんな夜に」ふさわしい情緒が、オリオンの星からくる光とほとんど同じ仄かさであることを証明できるはずなのだが・・。もう書かれるものはどうしたって弱く、儚いものになってゆくばかりだ。
この辺で、筆をおこう。「こんな夜」だから。

