「小さな正義」を実行することは、とても難しく、それを行う機会も少ない。
その偶然の場に居合わせたとしても、「小さな正義」を実践できるか、そのハードルは高い。実践する前に、自分の気持ちのポテンシャル、まず声を発するという前段階で気後れしてしまう。
東京新聞に掲載されたその実践的な記事が、最近たまたま目に留まったので紹介する。
女子中学生がバス停で待っているとき、中年女性2人がゴミをポイ捨てしたのを目にした。実にさりげなく、事もなげにゴミを捨ててバスに乗ったのだ。
少女は二人の一連の行動を見ていて衝撃を受けた。大人はごみのポイ捨てなんかしない、と単純に思っていたのに、それを見てしまった。少女は、大人の狡さとか、倫理観の欠如を見咎めたのではない。
「教えられた、してはいけない」ことを平気でする大人を見てショック・衝撃をうけた。
「見て見ぬふりはできない」と。彼女のハートのどこかに「小さな正義」が発動したのだ。事の次第を下の写真から読んでほしい。
逆バージョンのエピソードがある。同じ東京新聞だが、この場合は日頃から「大きな正義」を説く大人のケースである。
上記の読者投稿記事の、2,3日か前の「筆洗」というコラムからのエッセイ。散歩中の初老紳士が愛犬の糞を拾い、ポリ袋に入れたのはいいが、なんとそれを川に放り投げたという話があった。
「筆洗」の著者は、何を主題にして書いたかというと、海に流れるプラスチックが年間800万トンという膨大な浪費のこと。海という自然にたいする悪影響にはふれていない。さらに、社会及び国際的な「正義」の観点から、プラスチックの投棄をさりげなく読者に訴えている。
まことに高邁な論旨であり、実体験にもとづく新聞コラムである。だが、「筆洗」の著者が彼か彼女かしらんが、犬の糞が入ったポリ袋を棄てた人に声をかけたのだろうか。どんな風体であったか書いていないし、その初老の紳士といかなるコミュニケーションがあったかも書いていなかった。
土手か河原か知らないが、もしそこに「小さな正義」が転がっていたら、それをすくい上げて噛みしめるように、せめて「それは駄目でしょう」と言って欲しかった。
人によるだろうが、他人から「駄目だ」と言われると、その否定的な言葉には反応して、なにかしら会話が生まれる場合もある。
何故、「駄目」なのかを考える、何かしらの話のきっかけが生まれる可能性もあった。「大きなお世話だ、ほっといてくれ!」とその時、その紳士が言ったとしても・・。犬の糞が入ったポリ袋を毎日、平気で川にポイ捨てしていた、その行為が後に何故「駄目なのか」、何かしら気づくことがある・・。
「小さな正義」、考えるよりも実践することが大切。分かっていても、実践できるチャンスは少ない。まして、それを発見し、声に出すことも怖くて、苦しい。場数を踏むしかないのだろう。