偶然に、畏敬する安富先生の公開講義を観ることができた。
孔子と老子の「道」についての話で、ウィトゲンシュタインの語りえるもの・語りえないものとの境界について、二千四百年前の孔子と老子も考えていた。ただ、その境界の微妙な差異が二人の思想のおおきな隔たりなのだが、老子は語りえないものを語ろうとしているから面白いと、安冨先生は述べている。もちろん彼女(?)流の解釈ではあるが、そこに主張したいことの根本を匂わせる。
まず「道」とは、人間がより人間らしく生きる「道」のことであり、それは不断の自省および自己向上という改変、努力することが織り込んでの「道」である。
こう書くと、なんだか松下幸之助の「生きる哲学」や「生き様」にも似ているようで、真面目過ぎてちと苦笑してしまうのは不謹慎の誹りをうけかねない。
まず「道」を歩んでいる「自分」を想像してみていただきたい。どんな「道」なのかは、もちろんあなた次第である。そして、その「道」はいつか分岐点に遭遇する、と設定しよう(道は決して一本道でありえない)。
そこにおいて、あなたの前には「選択」が現れたはずだ。これまでの過去に照らし合わせ、それはベストの「選択」をしてきたと言い切れるか?
たぶん迷いは生じ、正しい選択をしたと言い切ることはできないのではないか。運を天に任せるのか、自らの経験・知識を勘案しての決断だったのか・・。
そのとき、間違うことなく自信をもって、最善の選択をしてきた、これからもそうなるよう努力をしていく。そういえる人は実に幸せだ。(自信過剰か、あるいはお人善しと言えなくもない)。
もしかしたら、あなたが忌避した「道」の方にこそ人間らしく生きる「道」、つまり自分らしく生きる理想に近い「道」があったかもしれない。そこまで思えたひとは、ひとまず適切な「選択」をしたのだと思う(と、安富いや孔子さまは宣った)。
そうなのだ、人間は文明を発明してから、その岐路で適正な「選択」をしてきた、と一応しておこうではないか。今の現実はそれほど差し迫ったものではない、少なくともこの日本においては・・(戦争・原発、大きな禍根を残すが、克服した今日があるとしてだが・・)。
ともあれ、人間が生きていくための「道」は、個人的には、その人の定めのようなものが生まれ始めからあって、その経緯において、様々な必然と偶然のミックスした事柄に遭遇するわけだ。
それは、たとえば自然界の海に見られる波のような現象であろう(月並みだが、押したり引いたり、上昇と下降の自然法則)。
実際には、物事の推移を分別できる歳になると、疑心暗鬼に落ち込んだり、被害妄想に陥ったりすることもある。若いときはそれこそイケイケで、見知ったことをスポンジのように咀嚼し、己の発想や成果として自己表出できたかもしれない。
なんでこんなことを書いているかというと、オルテガの『大衆の叛逆』のNHK番組を先ほど観ていて、いま私たちが生きている「道」とは、いま生きている私たちだけの「道」ではない、ということが歴然として判ったのだ(最近の中島岳史の仕事はいい)。
そんな単純な道のりではない私たちの「道」は・・。死者たちが営々と積み上げてきた、紆余曲折の「道」を私たちはつねに歩んでいるということを意識しているかということだ。
だからそのつど、死者たちによって、「選択」は迫られる事象が現れている。わたしたちは何を視るのか、何年先を見渡しているのか。
安冨 歩「「道」とは何か? :『論語』と『老子』の世界観」ー東洋文化研究所公開講座 2017 「アジアの知」
▲1時間余りあり、識者からすれば学識的に「うーん」となるだろうが・・。話のコンテンツは深くて傾聴すべきとおもう。
※思いつくままに書いた故、変更有の記事とする。また、追加もあるので予め了承されたい。