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「あなたのおじいちゃまはねぇ」 @ 三木睦子の “遺言”

 


 今日は、8月15日ですね。9条の会の呼びかけ人の一人であった三木睦子さんが 2009年6月9日に開催された「9条の会」の学習会での講演の記録です。ここで言う「あなたのおじいちゃま」とは、岸信介のことではなく、安倍首相の父方の祖父・安倍寛のことですが、彼は四高出身なんですね。金沢ゆかりの人物でありました。動画は文末にあります。                          


 今日は、昔、私の親しんだ方のお話をしようと思って伺ったわけでございます。昔々、われわれ日本人は戦争をしておりました。周り近所に背を向けて戦争をしていた。それで、なんとかして平和を取り戻さなければいけないというのが、私の夫(三木武夫1907年〈明治40年〉3月17日 - 1988年〈昭和63年〉11月14日)やそのお友だちの意見でございました。

 一所懸命平和を唱えていますと、官憲の目が光って、特高警察なんて言うのが後を付け回すんですね。それで、それをまいて、真夜中になってから家にいらして、こそこそっと握り飯など食べて、また、闇の中へ消えていくというようなお友だちもございました。でも私は、数少ないそういう平和を願うお友だちは非常に大事にしなければならないと思って、真夜中でも急いで何かお腹にたまるものをと心掛けていたものでございます。本当に、本当に苦労して一所懸命に平和のために働いている方が多ございました。

 いま総理大臣をやっていらっしゃる安倍さんのおじいさまの安倍寛(1894年<明治27年>4月29日- 1946年<昭和21年>1月30日)さんという人も、本当に熱心に平和を説いていらしたのです。でも、安倍晋三さんが総理になるとすぐにその系図がでましたけれども、安倍家の方は一つも書いてなくて、お母様のお里のことばっかり。岸家の孫だとかなんとかって書いてあるんですね。私にとっては、どうも何かが足りない。反対なんじゃないか、やっぱり、安倍さんの息子さんなのだから、安倍さんのお父さま、おじいさまのことをもっと語るべきではないかと思ったわけでございます。けれども、新聞はそれを書きませんでした。そうなったのは、発表がなかったのではないかと思います。新聞社の人は、そんなに嗅ぎまわってものを書こうという態度ではない、発表されたままを書く―ということは、安倍家の方はもうご先祖ではなくて、岸家だけがご先祖として堂々と繋がっているという感じだったのかもしれません。

 でも、私は、今の安倍総理のおじいさまと親しゅうございました。仲良しにしていただいておりました。というのは、あの方は、一所懸命平和を説かれたのです。日本中で、こんな戦争をしてはいけないのだ、平和でなくてはいけないのだということを一所懸命説いていらっしゃいました。特高警察などが後を付け狙って、演説会では何かっていうと、「弁士注意!」なんて大きな声をお巡りさんがあげるんですね。でも、そんなことをかまっちゃいないで、一所懸命、一所懸命、大衆に向かって、いま日本はどうあるべきかということを説いていらした安倍寛さんという人の姿を思い浮かべます。
 背がすらりと高くって、あんまり肉付きはよくなかったのですけれども、がっしりした体つきの方でございました。安倍さんには奥さまがいなかった。だから、ご自分でお家へ帰っても誰もいないから、夜遅くなって、「ああ、お腹がすいた。奥さん頼む」なんて言って入っていらっしゃるんです。私のところにいらっしゃれば、すぐ三木が迎えて、二人で非戦論を語ることができるということで、よく来て下さったのですね。三木と二人で戦争をしないためにどうしたらよいか、この戦争を避けるためにはどうしたらよいかということを相談しておりました。

 歳にすれば私と安倍さんは、幾つぐらい違ったんでしょうか、20歳ぐらい違ったかもしれません。立派な安倍寛さんのお話を聞いていると、おっしゃることはとっても判りやすくて、すばらしい方に思いました。立派なことをおっしゃっているなと思いながら、一所懸命聞いておりました。そして、少しでもあるものを取っておいて、明日いらしたら、安倍さんに食べさせたいと思ったぐらいです。
 というのは、その頃はだんだん食糧が少なくなっておりまして、なかなか美味しい牛肉も手に入らないし、新鮮なお魚も手に入りにくくなっておりました。少しでも栄養のあるものは、安倍さんのために、あるいは三木武夫のために、そして夜中にこそこそっと食事をして、また闇の中に消えていく人たちのためにとっておきたかった。私は歳が大分隔たっておりましたから、話が分かっているような、分からないような、なんでございますけれども、何かそうした方々のやることに共感を覚えるというか、敬意を表して、せめてなんとかしてお腹の足しになるようなものをと思って、一所懸命心掛けていたものでございます。

 安倍寛さんはいつもなんにも不服もおっしゃらずに、食べてすぐに、「さぁ行こう」と言って、また闇の中へと消えておしまいになりました。私は、ご苦労様たなあと思いながら、どうぞまた今晩、また明日っていうようにしてお見送りしたものでございます。あの方が、一旦口をついたら本当に凛々しくて、素敵な演説をなさっているのはよく分かっておりましたから、安倍先生のいらっしゃる時には、本当にできるだけのことをして差上げなければならないと思っておりました。
 安倍さんは奥さまもいらっしゃらず、孤独で一所懸命日本中を走り回って、国民のために、あるいは、将来の日本ために働いた人でございます。帝国議会の衆議院議員でしたが、1942年の翼賛選挙では、三木と同じく翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに当選し、当時の軍部主導の国会を厳しく批判してがんばられた方です。それを、今の新聞社は何も書いてくれない。私はもう腹が立って仕方がありません。もっともっと新聞社の人がそこまで書いてくれれば、何も安倍さんの系図から岸家を抹殺されなくてもいい。おじいさまの安倍寛さんがこういう方だったということを、この平和な日本をつくるためにどんなにかご苦労なさったのだということを、書いてほしかったのです。
 
 いまの私たちに戦争も知らない本当に平和な時代を作ってくださったのは、安倍寛さんだったと思うのですけれども、新聞はそれを一つも書かない。私は、新聞社の人は、若いから何も知らないんだ、どうしてこれを教えてあげる人がいなかったのか、と考えてみました。でも、今や新聞社の社長だってなんだって、みんな戦後に生まれた若い人ばっかりなのですね。戦後60年ですから、そろそろ定年退職しなければならない人たちが新聞社を支配している。それじゃどうにもならない。私は、少しでも声を大にして安倍寛さんのことを申し上げたい。でも、私もその頃は、ただ家の中の用ばかりしていて、安倍さんの実績もなんにも存じあげません。それでも、こういう人が立派な言葉で、国民のために平和を説いたことを、皆さまにも知っていただきたいと心から思います。
 
 あの方は、本当に、姿形がそれは素敵な方でしたよ。背がすらりとしてほんとに素敵な人でしたけれども、姿形以上に、言動が本当に立派だと思いました。いいことをおっしゃる人でした。そして、決しておごることなく、毎日、足を棒にして日本中に平和を説いたのです。いまのこの戦争は、本当に日本人のとるべき戦争じゃないのだと、もっと平和でなければならないのだということを一所懸命説いていらした安倍さんの姿を思い起こします。
 三木も一緒に一所懸命働いていたには違いないのですけれども、早く世を去られた安倍さんのことを考えますと、本当に残念に思われます。安倍さんのお子さんも亡くなり、お孫さんは天下を取って総理大臣になっていらっしゃるのに、おじいさまのことをご存じないのですね。生まれていなかったから、それは当然です。当然だからこそ、他人の私でも、声を大きくして、「安倍さん、安倍さん」って言わなければ、多分教えてくださる人ももう殆どいないだろうと思うのです。安倍寛さんのことを思い描きながら、教えてあげなくてはいけないとしみじみ思うのでございます。
 
 近々、私は大臣のお招きで―安倍さんのお招きじゃないんですね、あれは何大臣でしょうか、官邸へ行けることになっておりますので、その時にうまく安倍総理にお目にかかったら、「あなたのおじいちゃまはねぇ」って言って話をしたいと思うのでございます。

2007年6月9日、『9条の会』学習会の挨拶

 10miki


明日の日曜日 ブログお休みします


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