秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

奥祖谷夏点描 暮らしの夏 山里に歩いて

2011年07月13日 | Weblog
何かが足りない、生きてゆくことに何かが足りないと何時も問いかけても
霧に包まれたように、ぼやーとしか判らずに、時間のみが過ぎてゆく。

自然の織り成す風景に一時の憂さを忘れかけては、目の前の亡霊の欠片に
脅えて、山に逃げ込むのだが、それも詮ないことである。

茹だるような暑さに、都会生活の便利さという呪縛から逃れることや
街中では脳みそが腐りはしないかと心配して奥祖谷に逃避するのだが
此処もさすがに日中は暑い。

今時分では草刈機のうなり声が彼方此方で聞こえるが、潅木のなかで
遠く離れた場所であったりする。

日なかに集落を歩いてもひっそりとして誰も畑仕事に出てこないので
朝晩の涼しい時間には立ち話も出来るというものである。

すでに十余年の歳月が流れた、亡くなられた人たちも数知れず、山を下りた人たちも
数知れず、川のように過ぎ去りわが身もただ流れに任せて生かされてきた
老境に居るも何一つ実になることも得ることなく、死のごとく生きてきたように思う。


自然も人間も存在そのものが、まさに死という宿命をもって生きている限り
生成変化そのものであろう。
ならば、過去に固着することなく、自分を捨て去りて生成変化のなかに
身を置くのもいいかも知れない。
心を平安に保ちたければ、このまま自然を愛し、自分の心にも自然を持って生きることだ
つまりは自分の中に強烈な自然を持つこと。

自分の感性を、良く見つめ、分析できるようになれば、心の本質に触れることが出来
心の中の深い傷や複雑な感情も理解できるだろう。


人間の魅力のひとつでもある、抱いている漠然とした不安も
本当は実にたわいもないことだったりすることが多い
不安に光を当てよう、そうすれば不安の闇は消える。