「ハート村の伝説は、私が中学生の頃に聞いたことがあったけど、あの頃はその話を聞いても特に気にも留めてなかったわ。
だってあの世とかこの世とか、関心なかったしね」
美香さんは足下の落ち葉を一枚拾って、手のひらに乗せて、両手で擂り潰しながら話を続けた。
「この松の木はね、樹齢百五十年余りで、永縁結木(えいえんむすぎ)と呼ばれているの。
この場所に立ち止まって、対岸のハート村を見た者同士が、親子でも夫婦でも恋人同士でも互いにね…」
「互いに?」
僕も傍らの小さな切り株を見つけて、腰を下ろした。
「お互いに、松の木に触れて、あの景色を見ながら、その瞬間にお互いの事を思うの
それが絶対条件…森田くん、今さっき頭の中で何を思ってた?」
「あ…と…景色見てただけです」
「今、私の事は全く頭に浮かんでこなかったでしょう」
「あ…はい…」
「私も森田くんの事は考えてなかったよ。チョコレート持ってくるんだと思ったし、ちょっと喉が乾いたって思った」
「なんですか~美香さん、この話の流れでチョコレートですか?」
「ねっ、同じ景色を見ていても、全く別々のことを考えてるでしょ、でね、永縁結木の御神木が叶えてくれるのはね」
「何を叶えてくれるんですか?」
「この場所で相手のことだけを同時に思い合えば、一人が亡くなったら、もう一人も一年以内に逝くの。
二人が共に永遠でありますようにって、一人が先に逝っても遺された者が泣き暮らさない様に、連れていってくれるの」
「伝説の根拠はありますか?」と僕が訊ねると、美香さんは一瞬、眉間に少ししわを寄せた。
「さっきのご主人のご先祖様は庄屋様だったの。そこに遣えていた使用人が古文書を盗み見て、
自分の子孫にだけ、こっそり伝えていたの。言い伝えは先々代の死後、少しずつ広まって言ったみたい。
で、今はネット社会でしょ、それから恋人同士でここを訪れる人が、増えたみたいよ」
「それで…ハート村伝説なんですね」
「私の知人も同じ年に亡くなったけど、二人は昔、付き合っていたからね、あの二人もこの場所に来てたんだなあって思った。
なんか羨ましかったわ。でね、願いが叶っても、本人達は御礼参りは出来ないからね。この世にいない二人の代わりに
私は初盆の時にこの場所に来て、松の木に手を合わせにきたのよ」
美香さんは立ち上がった。
「御礼参りの出来ない願い事って、哀しい伝説ですね…」僕も立ち上がった。
「見えないものの世界が一番長くて尊い事に、昔の人達は気付いていたから、様々な民俗や風習がこの村には語り継がれているのよ。
山岳信仰の懐で、生きているんだものね。
お祖父さん達の代わりに、松の木に御礼の挨拶しなさいよ。今から何かしらの御加護があるかもよ~」
美香さんに肩を押されて
僕は松の木に手を合わせて、深くお辞儀をした。
「これから森田くんを待っている人に会いに行くからね、帰るよっ!森田くんのお母さんの同級生らしいよっ」
美香さんは、また得意満面に微笑った。
透けた空に浮かんだ真昼の月は、生あくびしているみたいに見えた。
僕も小さな、くしゃみをした。