「いつもの店でいつもの時間に集合よろしく」
祐基からのメールが届いたのは、気象庁が梅雨明けを発表した日の午後だった。
母がいつも、四季の移り変わりを敏感に感じとっていた事を、不意に思い出した。
「梅雨に入ったわよ」
「梅雨が明けたわよ」
「もうすぐ、桜が咲くわ」
母が口にしてから、必ずその数日後に気象庁が発表していたから
確実に的中する母の予想を僕は毎年不思議に思っていた。
宮さんから、祖谷蕎麦の話を聞いた時も
あの時の母の言葉の意味が、後になって理解できた。
あれは母の病室を訪ねた、去年の7月頃だった。
パイプ椅子に座って母のベッドの布団に凭れていた僕に、母が虚ろな目で呟いた。
消えそうな位小さな声だった。
「そば…」
僕は母の顔の近くに寄って、
「そばにいるよ、傍にいるからね!母さん」
と声を掛けた。母は寂しそうな顔をして、じっと僕を見た。
「祖谷ソバの種を蒔くのは、ジャガイモを収穫した後の畑でな
土を掘って柔らかくなった畑にソバの種を蒔いて
昔の人は一時も畑を休まさないで、活用してきたから、偉いよなあ~」
と宮さんが、教えてくれた。
母はソバの種を蒔く時期を、季節の無い病室の壁の中に居ても、判っていたんだ。
あの時、ソバ…と言いかけたのを、僕は傍と思い込んで、母の言葉を途中で遮ってしまった。
母はきっとあの場所に、いつの日にか僕を連れて帰りたかったんだ。
母の人生の全てを賭けて、生まれてきた僕は、誰一人守れる男でもなく
自分の胃袋を満たす為だけに生きている
裏山に棲む小動物にも劣る、本能の欠片も無い生き物に思えた。
こんな風に過ぎた時間の後悔ばかりを繰り返し、呵責の年輪を刻んでいくのだと
不甲斐ない自分自身が、情けなかった。
母が元気だった頃は、そんなセンチメンタルな事は、考えたことも無かった。
この世界のどこを血眼になって探しても、母は絶対に存在しない。
僕は僕以外の何者でも無い、悪戯な神様に天涯孤独の刻印を、頭上から捺されてしまった。
職場とアパートの往復と、時々居酒屋に出向いて行く。
この時間の積み重ねを人生と呼ぶのなら、僕はなんて薄っぺらな時間に
翻弄されているんだろうか。
夕刻の駅前通りを、人ごみの中をすり抜けながら、早足で歩いた。
いつもの居酒屋に向かえば、僕を待っている祐基達がいる。
それだけで、救われる様に思えた。
暖簾の無い店の中に入ると、壁側のテーブルに祐基達が座っていた。
祐基が、僕をみつけて片手を高くあげて、合図をした。