車から降りた美香さんは、対岸の景色を眺めてから、両手を高く挙げて、一度深呼吸した。
「今から行く場所は、個人の所有地だからね、ちょっと宮さんの民宿友達に挨拶してくるわ」
と言って、一軒の農家に向かって行った。
前方を見ると、農家民宿の案内板があった。
暫くすると美香さんと年配の民宿のご主人らしき人が、庭先から出てきた。
「君が噂の東京の若者ですか」
と人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
「あ…いえ…はい」
と返事をしたら、恥ずかしくなって笑ってごまかした。
「伝説の場所に行く為に、泊まってくれるお客さんもいてなあ、口コミのチカラは怖いくらいですよ
気をつけて行ってらっしゃい、帰りは寄って休んで下さいよ」
と言って、僕達を聖地の入り口と言われる場所まで見送ってくれた。
美香さんは、山に向かう斜面に続く、畑の中の小道を歩きだした。
「この下の野原は、福寿草の群生地でね、さっきの民宿のオーナーさんが
一人で10年以上かけて手入れして、守っているのよ」
美香さんが雪の残る斜面を指差しながら、話してくれた。
美香さんは息も切らさずに、一定の速さで、斜面を登っていく。僕はすぐに息が切れて立ち止まった。
冷たい風が頬に当たり、気持ちよくて、思わず対岸に向かって「ヤッホー」と叫びたくなったけど
恥ずかしくなって挙げかけた両手を直ぐに下ろした。美香さんにチラッと見られた。
「昔、電話のなかった時代の連絡手段でね、呼びごとっていって、集落の人達が声を張り上げて
一軒、一軒と順番に伝えて言ってね、対岸の集落に連絡が伝わったら、白い物を振って合図してたんだって。
集落で誰かが亡くなった時とか、急用の時の連絡手段だったそうよ」
「なんか、この日本の原風景見てたら、想像できます。感動的です」
と僕は立ち止まって朗読みたいに言った。
「頑張ってついて来てよっ、もっと感動的な場所に連れて行くからね」
と声を張り上げながら、足元の枯れ葉を両手一杯にかき集めて、下の小道にいた僕に、降り落としてきた。
50才にしては、幼稚なことをして、楽しんでいる。
落葉樹から張り巡らされた無数の枝の隙間から見上げた曇り空は、不揃いな形の中で広がっていた。
最後の急斜面を登ると、先に到達した美香さんが叫んだ。
「着いたよ~目的地っ~聖地のゴール」
僕も慌てて、落ち葉に足を滑らせながら駆け上がった。
拓けた場所から、遥か前方に自然林に囲まれたハートの形の中に集落が包まれている、不思議な景色が見えた。
「あの集落は安徳天皇が埋葬されていると伝わる、鳥居のない八幡神社がある栗枝渡集落なのよ」
美香さんは切り株に腰を下ろして、指さしながら話した。
僕はその景色を、じっと見つめていた。
「森田くんのお祖父さんお祖母さんも、この景色を二人で見たんじゃないかな?」
「え…どうしてですか?」
「この場所は、昔は山越えをする近道だったの。
でね、ここからがハート村伝説の本題なんだけど…」
美香さんは、一本の松の木を撫でながら、話し始めた。