楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

次へと進みましょう

2023-09-05 19:35:55 | 日記

少し進むと

神社の鳥居がありました。鳥居には八幡宮とあります。入って見ましょう。

由来書が立ってます。それを読むと、当長崎八幡宮は、鎌倉の鶴岡八幡宮より御霊を受けた分社です。御祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后です。天皇陛下御即位十年を記念して、当八幡宮の社殿境内地の平成大改新を行いました。家内安全・開運・厄除・諸願成就・当大神様の御加護をいただける様、日々を感謝してお詣り下さい。とありました。それでは、日々を感謝してお参りいたします。

わぁ、怖い! こちらを睨んでいる狛犬がいます。

これは、長崎八幡神社の落慶碑です。長崎八幡神社の創建年代は不詳ですが、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して江戸時代に創建したといい、現在長崎神社の境外末社となっています。ところで、長崎神社とこの八幡神社の関係は長崎神社の方が親なのですね。長崎神社は、豊島区長崎にある神社で創建年代は不詳ですが、長崎村の鎮守として信仰を集め、江戸時代の中期には十羅刹女社と称せられていました。明治の神仏分離令により十羅刹女神に代わり須佐之男命を祭祀し、氷川神社、そして長崎神社と改称し、現在に至ります。元来、櫛名田比売命を祀り、武州豊島郡長崎村(現在の豊島区長崎・南長崎・千早・要町・高松・千川と目白4・5丁目、西池袋4・5丁目、池袋3丁目の一部)の鎮守として信仰を集め、江戸時代の中期には十羅刹女社とも称せられ、境内には享保18年(1733)に奉納された「十羅刹女」と刻まれた手水鉢が残されています。隣接する金剛院は、明治元年(1868)の神仏分離令まで、長崎神社の別当寺でした。 その後、明治5年(1872)には村社と定められ、同7年須佐之男命を合祀して長崎神社と改称し、今日に至っています。精緻な彫刻物を有する本殿は嘉永2年(1849)に、拝殿は明治32年に建立されたもので、旧社殿は絵馬を納める額堂として使われています。ほかに山岡鉄舟揮毫の神社額と祭礼幟などがあります。 なお、元禄年間(1688-1704)に始まると伝えられる獅子舞は、五穀豊穣と悪病退散を願って江戸時代から長崎村の人々により伝承されてきた区内唯一の民族芸能として、平成4年に豊島区民俗文化財に指定されました。毎年5月の第2日曜日の祭礼では、氏子会や獅子達を中心とする地元住民により獅子舞が盛大に奉納され、9月の例大祭とともに多くの人々で賑わいます。ということでした。それぞれが結び合って、ここにあるのがわかります。

本殿へ来たので、お参りして次へと進みます。

何の建物でしょう?幼稚園か保育園見たいですね。

おやおや、公園に来ました。長崎公園と言うそうです。

丁度、木陰もあり一休みして行きましょう。

これは、何の囲いなんでしょうかね?犬猫用かな?

                 つづく  

 


今度は、ここから行きますよ

2023-09-02 19:40:11 | 日記

練馬区と豊島区の境目に位置するここ椎名町から出かけます。

西武池袋の椎名町駅北口へと出て来ました。

何と目の前に、こんな神社があります。長崎不動尊という神社で、地元の人が大切に守って来た神社です。ご覧のように、今日も近所の方がお掃除をしていました。先へと進みましょう。

今度は、このような立派な門構えのお寺へと着きました。

案内版には「金剛院」とあります。この金剛院と言うお寺は、真言宗豊山派の蓮華山金剛院と号します。金剛院の創建年代は不詳ながら、聖弁(永禄6年1563寂)が開山、江戸時代中期に当地へ移転したといいます。御府内八十八ヶ所霊場76番札所、豊島八十八ヶ所霊場76番札所です。ということで、なかなかのお寺なんですね。

この像は、開祖の聖弁というお方でしょうか? いや、弘法大師像かな?

たくさんの石仏が山を成して、開祖像を盛り立てていますよ。

こちらは、弘法大師堂というそうです。

やはり、こちらが開山和尚の碑だそうです。

本堂は、このようにやや質素な感じでした。

                   つづく


この旅も終わりそうですね

2023-09-01 15:51:31 | 日記

荻窪駅の近くになって来ました。最後の立ち寄り場所はここです。

狛犬と手水舎を通り過ぎて、

小さい祠が並んでいる稲荷社を見ながら

こんな末社もありました。これは、合社されていて、須賀神社、金山彦神社、日枝神社の一体化された祠だそうです。

これは、大鳥社と呼ばれる末社だそうです。

本殿の前へとやって来ました。お参りに来ている人も見かけましたが、地元でも有力な神社なんですね。

ところで、この天沼八幡神社は、旧天沼村字中谷戸の鎮守社として天正年間(1573-1591)に創建したと伝えられます。明治40年に四面道市杵嶋神社を合祀、昭和2年村社に列格したといいます。「新編武蔵風土記稿」多摩郡天沼村の条に八幡社とあって「除地、百五十坪、コレモ中谷戸ニアリ此所ノ鎮守ナリ本社ハ三尺四方ニテ覆屋二間ニ三間南向例祭九月ニテ下ノ稲荷十二所権現ト交ル々々行ヘリト云ウ」と記されているように、旧天沼村字中谷戸の鎮守で天正年間(1573-1591)の創建と伝えられています。
祭神は応神天皇です。明治四十年九月に字四面道の鎮守厳島神社(祭神市杵嶋比売命)を合祀しました。昭和二年四月に村社となりました。境内末社に大鳥神社(一殿)・稲荷神社(二殿)・須賀神社・金山彦神社・日枝神社(以上合殿)があります。なお、日枝神社はその昔、天沼村が江戸時代に赤坂の日枝神社(山王日枝神社)社領であったため、旧村から末社としてこの地に奉斎されました。相殿の祭神市杵嶋比売命は、合祀以来水神・安産の神として深く信仰され、雨乞いの行事として熊手市がたちます。当社では開熊手守・福桝等を授与しています。現在の社殿は、昭和五十二年に改築されました。とのことでした。

それでは、この天沼八幡神社を後にして、荻窪駅から帰ることにします。

                この稿おわり


熊野神社は数多くあれど

2023-08-30 20:02:03 | 日記

境内を見て見ましょう。

天沼熊野神社は、杉並区天沼にある熊野神社です。創建年代は不詳ですが、神護景雲二年(768)の創建とも元寇三年(1333)の創建とも伝えられます。その後応永二年(1395)朝倉三河守が当地で帰農し十二所権現と称するようになったといいます。明治維新後熊野神社と改称、明治7年村社に列格しました。この神社は、旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命が祭神として祀られています。

また鳥居があります。これは白玉稲荷社という別社ですね。

おやおや、こんな可愛らしい夫婦像もありますよ。

ここは末社ですね。

こちらの末社には、ご覧のような杉の大木の根っこでしょうか?置かれています。社伝によれば、この杉は新田義貞がこの地に陣をしいた際、戦勝を祈願して手植えしたものと伝えられています。惜しいことに、枯死したため昭和十七年伐採され、今では切株で昔をしのぶだけとなっています。そのほか境内には、文化十四年(1817)九月奉納の石造鳥居と、文久二年(1862)九月奉納の石造手水盤があります。

こちらが本殿になります。それでは、次へと進むとします。

                  つづく


少し疲れて来たけどまだまだ

2023-08-29 15:45:11 | 日記

さて、その先に行って見ましょう。

歩いていると、赤いバラが咲いている垣根があり、思わずパチリ

おやおや、こんな公園に来ました。「大谷戸さくら緑地」とあります。ここは

UR都市機構 シャレール荻窪などの大規模住宅に隣接した小さな緑地です。防災倉庫と水飲み場があり、災害時の利用も想定に入れて作られ、平成25年4月に開園したそうです。シンボルはけやきの木、春の新緑と、秋の紅葉時期は美しい葉を広げ、公園設備としてはブランコ、お砂場、滑り台があります。

さらに進むと、

瀟洒な門構えの公園、「大田黒公園」へとやって来ました。思わず入りたくなる門構えです。

ホーゥーラ、この道が素敵でしょ!

奥にはきれいな庭園もありますよ。ところで、杉並区では有名な公園ですが、区立の都市公園音楽評論家大田黒元雄の自邸を整備し、1981年昭和56年)10月1日に開園しました。自邸の30%を公園にして欲しいという大田黒元雄の遺志に基づいて、遺族から杉並区に寄贈された土地に、周囲の敷地を合わせて公園として整備したものです。

可能な限り旧自邸の庭園の原形を残して、回遊式日本庭園として整備されており、正門から延びるイチョウ並木をはじめとして随所に巨木が残るほか、従前からあった池が再現されています。日本式の庭園技法が生かされた和洋折衷公園の成功例であり、美観がよく維持管理され、見る公園として高く評価されています。園内には、休憩室及び茶室や、1933年昭和8年)に建てられたレンガ造洋館のアトリエを改装した記念館が設けられています。 ということで、ここで小休止して出発します。

おやっ、今度は神社らしきところです。

案内版があり、「天沼熊野神社」とあります。読んで見ると、天沼熊野神社の創建年代は不詳ですが、神護景雲二年(768)の創建とも元寇三年(1333)の創建とも伝えられます。

創立については詳ではありませんが、社伝によれば、神護景雲二年(768)、東海道巡察視が武蔵国に来たときに、氏神を勧請し別当を置いたのがはじまりと伝えています。また一説には、元寇三年(1333)、新田義貞が北条高時を討つために鎌倉へ軍を進める途中この地に陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。その後、応永二年(1395)朝倉三河守という武将がこの地に帰農した際、社殿を修理し、十に社権現と称するようになったといわれています。熊野神社と名称を改めたのは明治維新以後のことです。天沼は古来からの名称で、奈良時代末期の武蔵国の「乗瀦駅」から起こったといわれていますが、諸説があって定説はありません。この辺りからは室町時代の板碑が出土していることから、その頃すでに開発が進んでいた地域と考えられます。また、蓮華寺の過去帳によれば、天沼村はおそくとも慶長年間(1596-1615)には成立していたものと考えられます。

 これは、手水舎です。龍の口から水が流れる工夫がされてます。

                        つづく