楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

公園には見所が沢山あったね

2023-08-25 12:55:38 | 日記

ぐるりと回って見ると、

写真入りで、こんな説明版があります。以前に寛と晶子が住んでいた当時の家屋敷の説明です。

かなり大きな屋敷だったのですね。

これは、寛が与謝野鉄幹として詠んだ和歌を表したものです。

こちらは、誰しもがよく知る晶子の「みだれ髪」からの一節、明治34年に出された第一歌集「みだれ髪」に収録されている作品です。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
(解釈:自分のことに夢中になって、すぐ傍で恋焦がれている私のやわ肌に触れようともしないあなたは、それで寂しくないのですか?)このような、女性の恋愛感情をストレートに表現した歌は当時、大変な話題となりました。大変、情熱的な晶子の気持ちが表れています。

さて、与謝野公園を出て東へと向かっています。ここは善福寺川に架かる春日橋という橋です。

ちょっとした小さな公園、荻窪公園がありました。

これから行く荻外荘という場所に向かう通りです。

何だか寂しい空き地のような場所へと来ましたが、ここが荻外荘といい近衛文麿の旧宅跡だそうです。近衛文麿は、戦前の昭和期に三度首相を務めた政治家で、この別邸で数々の重要な会議が行われたそうです。平成28年に国の史跡に指定されました。中には入れませんが、庭園の一部を開放しています。

荻外荘を後にして、荻窪駅方向へと歩いていたら、こんな建物がありました。「角川庭園・幻戯山房~すぎなみ詩歌館」というのですが、入れないので失礼します。

                  つづく

 

 

 

 

戯」

 

 


こんな公園があったんだ

2023-08-24 09:32:17 | 日記

さらに中を見て行くと、

 

扁額も立派ですね。

お社全体も、このように落ち着いた静かな雰囲気の中に鎮座していました、これが本殿です。それではお暇して、次へと進みます。

歩いていると、どこかの家の玄関口から駆け出して来た子どもがいましたよ。

今度は、大きな公園の入り口へ到着しました。ちょっと寄って見ましょう。

案内版が立ってます。「与謝野寛・昌子旧居跡」とあります。ここは与謝野公園といい、与謝野鉄幹晶子夫妻が関東大震災を機に翌1924年に移り住み、晩年を過ごした旧居があった場所に整備された公園で、1982年に南荻窪中央公園として開園したという場所なんですね。地元の要望を踏まえ、2010年度に隣地を取得したことを機に与謝野夫妻ゆかりの公園として再整備され、2012年に名称を与謝野公園に改めて再開園した、と言うことです。

公園は、与謝野夫妻の旧居の庭をイメージして整備されており、入口には門柱が立てられ、玄関があった場所に続く通路が設けられています。また、歌人の松平盟子らが選定した夫妻の短歌が記された14基の歌碑が設置され、庭には2人が好んだ樹木が植えられています。

それでは、もっと中を見て見ることにします。

                 つづく

 

 


善福寺川を渡った先には

2023-08-23 10:20:10 | 日記

光明院を出て、ふたたび街の中を歩いて善福寺川方向へと向かいます。

川へやって来ましたよ、この橋「本村橋」と言うそうですが、渡りましょう。

川の周辺は、このようになっています。

何だか変わった建物の前へ来ました。アパートかな、それにしてはちょっと変わっているなぁ、とよく見たところお寺でした。都会の街中のお寺も、周辺の開発で姿が消えて行くようです。寂しいのですが、これも時代の流れなのでしょうね。お寺の名前は、願泉寺と言うそうです。

さらに進むと、今度は立派な神社へ来ました。

案内版があり、見ると「神明天祖神社」とありました。この神明天祖神社は、杉並区南荻窪にある神社で、創建年代は不詳ですが、伊賀人、小林大弁・浅沼但馬守等が天正12年(1584)検地した際に、「草叢の中にすでに小社ありたり」ということから、戦国時代末期には既に祀られていたといいます。元和年間(1615-1623)に香取郡水刀谷の城主水刀谷蔵人影賢が当地に土着し、当社を再建したものの、零落に至り慈雲山光明院が管理していたといいます。百姓当麻六左衛門・梅田紋次郎等が文政元年(1827)に周囲を拓き、荻窪八幡神社の境外摂社としたといいます。 最初は、光明院の下にあり後には荻窪八幡神社の傘下になったんですね。

狛犬が、こちらに向かって吠えているようですよ。

これは手水舎です、ちょっと変わった龍でしょうか?水道のように水を出しています。

ここは神楽殿です、時にはここで神楽の舞を見ることが出来るのでしょうかね。

                    つづく


もう少し西へ行くと

2023-08-20 11:28:59 | 日記

 線路沿いに西荻窪方向へと進んで見ましょう。

 商店街を通り抜けて、線路に沿って進みます。

しばらく行くと、お寺らしき門構えが見えて来ました。

光明院というお寺だそうです。どんなお寺なんでしょうね、案内版を読むと次のようなものでした。真言宗豊山派寺院の光明院は、慈雲山荻寺と号して創建年代は不詳ながら、行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置、当寺を創建したと伝えられ、草創は南北朝時代ではないかといいます。かつては荻が鬱蒼と繁り、荻寺とも呼ばれていたといいます。本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝にさかのぼるものと考えられます。

相当古い時代に遡るお寺なんですね。今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。
なお、嘉永3年(1850)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治21年(1888)甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。

寺宝もいろいろある見たいですよ。

お地蔵様も、こんなに並んでいます。

境内のいろんな場所に、まだまだ仏像があります。

これも、歴史を語る石仏像なんでしょうね。

多くのお寺では、弘法大師像が建っていますが、ここでは珍しいことに弘法大師碑という石碑が建ってます。

これは梵鐘堂です。

本堂へやって来ましたが、質素で静かな雰囲気です。境内にある数多くの石仏に囲まれていたお寺にしては意外な感じでした。でも、歴史が古く地域とのつながりも深いものがありましたね。四面道という道路が通ってますが、ここの四面堂が起源だとは初めて知りました。

                    つづく

 

 

 


もう少し中を散策して

2023-08-19 10:52:09 | 日記

まだまだ面白いものがありそうですよ。

ここは神輿庫だそうです。

奥の方に別社がある見たいです、行って見ましょう。

オヤッ、こんな像がありますよ、七福神の像ですかね?それにしては何だか怖い顔してます。

その後ろでは、猫が可愛い顔をして寝そべっていました。

その先には、こんな翁像があります。

小さな祠も見えました。

その前には、怖い狛犬像が睨んでいます。ということで、本殿へと向かいます。

さすがに本殿だけあって大きな立派な建物でした。

社屋や数多い奉納品の中、昭和3年に奉納された神輿は百五十貫余(約563kg)もあり、また大太鼓(直径149cm)は、府中の大国魂神社の太鼓につぐ都内第二の大きさであるといわれます。昭和42年環状八号線拡張にともなって本殿、拝殿、社務所、玉垣んどの増・改・修築や多くの奉納がなされ、今日の姿を見るに至りました。先に見てきた奉納碑などは、この神社を造ることに貢献した感謝のしるしだったのですね。

                    つづく