降りた駅の下には、広い道路が走っている。さぁ、これから出発だ。
近くには茶畑も広がっています。
さっそく、小さな地蔵堂にぶつかりました。また、少し行くと、
こんな素敵な古い店もありました。酒屋かな何の店なんだろう?
今度は神社に出会いました。
諏訪神社といい、正徳年中(1711-1716)に藤原正如が勧請したものと伝えられ、入間川村のうち入間川の鎮守だったといいます。明治5年村社となり、明治44年中入間川の春日神社、その境内社を合祀したそうです。以下の解説ではこの様です。当社は入間川右岸の河岸段丘上に鎮座している。社の西側、つまり、入間川寄りは、ハケと称する窪地になっており、現在は住宅が建てられているが、古く、ここはお諏訪様の池と呼ばれ、清水が湧き出ていた。また、近くには今でも泉の湧いている所が二カ所ほどあり、もとは飲料水に利用されていた。更に、当社周辺に家を構える人々が使用している井戸は深さ一二、三尺の浅い所から水が出るといわれ、当地が水の便のよい地であることを示している。以上のことから、当社の創建についても、段丘のハケから湧き出る水と、これを利用する村人の生活と深い関係があると思われる。この、お諏訪様の池に住む竜神の話がある。溝、村人が畑仕事を終え、池のそぼを通りかかるとにわかに水が吹き上がり、竜神が狂ったように悶え苦しんでいた。これを見た村人は、たまたま手に持っていたナスを竜神に与えたところ、竜神の苦しみはたちまち和らいだという。以来、竜神はこれを感謝し、村人が病に苦しまぬように守護することを誓った。そのため、村では毎年夏になると竜神にナスを山のように供え、このうちのいくつかを受けて帰る習わしになったと伝え、このナスを食べると一年間無病息災であるといわれている。
さて、今度はどんな場所なのかな・・・
また、神社です。
清水八幡宮といい、狭山市入間川にあります。清水八幡宮は、木曽義仲の嫡子源義高(清水冠者義高)が寿永3年に当地で頼朝の追手に討たれたのを悲しんだ、北条政子とその娘(源義高の妻女)が源義高の霊を祀るために、当地に祠を建てたといいます。祭神・清水冠者義高(しみずのかじゃよしたか)は、木曽義仲の子として比企郡大蔵に生まれ、6歳の時伯父源頼朝に人質として鎌倉に呼びよせられ、成人になるや娘大姫の婿となり鎌倉営中に住まわせられていました。その後、父義仲が頼朝と不仲になり誅滅した後、義高も頼朝に疑いを受け謀殺されるとの風評に、変装して寿永3年(1184)4月21日払暁奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)をたよりに逃げましたが、すぐ頼朝の知るところとなり、途中当地入間川八丁の渡し付近で藤内光澄によりついに殺害されました。頼朝の妻政子と大姫がこの悲報に嘆き、また畠山重忠等の進言により無実なことが明らかとなり、当地に壮麗な清水八幡宮の社殿を造営し、政子自ら参拝し義高の霊を慰め、かつ神田を寄附されたといいます。しかし、後の応永9年(1402)8月の大洪水ですべて流失し、後年川原より石祠が発見され、現在の場所に鎮座し再建されました。清水八幡は市指定文化財で、毎年5月の第3土曜日に大祭が行われます。
つづく