熊野神社は、テーマパークのように、北側に色々な神社が並ぶ。
その神社の並びの最後に、ポツンと石碑が建てられている。
周囲には、石柱とそれをつなぐパイプで囲いが出来ている。
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石碑の表面は読みにくいが、落栗庵元杢網(おちぐりあんもとのもくあみ)の歌が刻まれている。
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碑の横に立て札があり、埼玉大学名誉教授 山野清二郎先生の解説が書かれている。
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元杢網の歌碑
徳川時代天明から寛政の頃、江戸に落栗庵
元杢網という狂歌師がいた。杢網は比企郡杉
山村(現嵐山町)の出身で、本名は金子喜三
郎と言った。若き頃より文才に恵まれた彼は、
壮年になってから家督を弟に譲って江戸に出、
和歌を学び、狂歌の道へと入って行った。天
明から文化にかけて、彼は狂歌界の中心的存
在となり、江戸中の半分は杢網の弟子とまで
謳われた。晩年は仏門に帰依して各地を旅行、
この川越にも来遊し、一時蓮馨寺門前の松郷
の窪に住み、笹の庵と称していた。その間、
蓮馨寺境内にあった地蔵堂の天井に雲竜を描
いたと伝える。この歌碑は文化年中、地蔵堂
の傍らに門人たちの手によって建てられたも
のと言われ、今は場所を移して当境内にある。
山さくら咲けば白雲散れば雪花見てくらす
春ぞすくなき 落栗庵元杢網
蓮馨寺の境内の桜を望見した歌であろう。杢
網の妻はすめ(狂名知恵内子)と言い、市内
小ヶ谷の内田氏の出と言われるが、詳しいこ
とは不明。
埼玉大学名誉教授 山野清二郎
色々な神社の前には多くの人が集まるが、この石碑に注目する人はいないようだ。
その石碑の左手に、何かの施設の入口がある。
確か「旧鶴川座」があったところである。
参道から石鳥居に戻って迂回する。
※元杢網についは、元杢網のページを見てして下さい。。