川越雑記帳2(川越見て歩き)

夜戦跡偲ぶよすがはなけれども(東明寺)

新河岸川の桜を見たあと、東明寺の前に出た。
山門を超えてイチョウがそびえ、入口の左側の塀の前に説明板が建てられている。


同じ時期に同じデザインで埼玉県と川越市が建てているが、これは埼玉県のものである。

そこには、つぎのように書かれている。

川越夜戦跡(かわごえやせんあと)
              所在地 川越市志多町
 天文(てんぶん)六年(一五三七)の戦いで、北条氏綱に川越城を
取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上
杉憲政、古河晴氏と連合して総勢八万余騎をもって、同
十四年十月に川越城を包囲した。一方、福島綱成のひき
いる城兵は、わずか三千でたてこもっていたが、翌十五
年春にはすでに兵糧も尽きて非常な苦戦におちいってい
たところ、北条氏康が八千騎をひきいて援軍としてかけ
つけ、四月二十日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。こ
れに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、東明
寺口を中心に激(はげ)しい市街戦となった。多勢をたのんで油
断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に
耐えられず散々(ちりぢり)となって松山口に向って敗走をはじめ、
この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちの
びたと伝えられている。敵に比べて問題にならないくら
い少ない兵力で連合軍を撃滅(げきめつ)したこの夜戦は、戦略とし
て有名である。
   昭和五十八年三月
            埼  玉  県

山門の外からも見えたが、境内に入るとイチョウの下に石碑が建てられている。


碑には「市指定史跡 川越夜戦跡」と彫られている。
川越市の史跡とあるが、市の説明板はない。

この碑については、以前書いたことがある。
ブログ

松本清張の小説「黒い空」はこの東明寺から始まる。
その中で、この石碑についてふれ「川越夜戦之碑」とし、「ほんらいなら、「河越夜戦」としなければなるまい。」と書いているが、そもそも碑名が間違っている。
「黒い空」

それはともかく、境内を見回しても夜戦跡という感じはまったくしない。
観光客の多い一番街から札の辻を通り、ほぼ一直線の突き当りにあるのだが、観光客を見ることは少ない。

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