あの日。
2011年3月11日。
妻が旅立って
わずか40日後。
私はその時まだ
妻を失った
哀しみの中にいた。
途方に暮れていた。
あの日。
なにかの手続きで
中央区役所へいき
私は呼び出しを
待っていた。
その時
クラクラッと
軽い眩暈を感じて
私は
椅子に座りこんだ。
でもそれが
眩暈でないことが
すぐわかった。
となりに座っていた
初老の男が
指さす先の大型TVが
震災の速報を
告げていた。
仙台で
大きな地震があり
札幌でも
揺れたのだと。
ふと
仙台に住む友人の顔が
頭に浮かび
電話をかけてみたが
繋がらなかった。
私はそのまま帰宅し
TVをつけた。
そこにくり広げられる
三陸の惨劇を見て
ヒザがガクガクと震えた。
その夜の会合では
欠席が多く
空席が目立った。
翌日に予定されていた
地下歩行空間の
開通記念セレモニーは
中止になったと聞いた。
帰宅してTVを見た。
気仙沼は
炎に包まれていた。
大きな哀しみ。
私はその時、
前を向き
自分の哀しみを
振り払うことに決めた。
そして
中断していた
このブログを再開した。
あの日から5年。
地震と津波と原発事故。
大きな痛手から
みな必死で
立ち上がって来た。
故郷に帰りたくても
帰れない人が
たくさんいるのに
いま
復興をけん引するべき
リーダーが
何もしていないのでは
みなの必死が
報われない。
その人が
一生懸命やった
経過や結果はない。
その人は何もしていない。
このブログで
他人の行いや
政治や国について
とやかく言うことは
ほとんどないが
復興を
けん引するべき人が
にやけながら
自己の勉強不足を
公言するのを見ると
書かずにはいられない。
今からでも遅くない。
勉強不足などと
笑って誤魔化さないで
しっかりと
一生懸命勉強して
復興支援のリーダーとして
相応しい人になって下さい。
あなたはそういう役割の
選ばれた人なのですよ。kyokukenzo
2011年3月11日。
妻が旅立って
わずか40日後。
私はその時まだ
妻を失った
哀しみの中にいた。
途方に暮れていた。
あの日。
なにかの手続きで
中央区役所へいき
私は呼び出しを
待っていた。
その時
クラクラッと
軽い眩暈を感じて
私は
椅子に座りこんだ。
でもそれが
眩暈でないことが
すぐわかった。
となりに座っていた
初老の男が
指さす先の大型TVが
震災の速報を
告げていた。
仙台で
大きな地震があり
札幌でも
揺れたのだと。
ふと
仙台に住む友人の顔が
頭に浮かび
電話をかけてみたが
繋がらなかった。
私はそのまま帰宅し
TVをつけた。
そこにくり広げられる
三陸の惨劇を見て
ヒザがガクガクと震えた。
その夜の会合では
欠席が多く
空席が目立った。
翌日に予定されていた
地下歩行空間の
開通記念セレモニーは
中止になったと聞いた。
帰宅してTVを見た。
気仙沼は
炎に包まれていた。
大きな哀しみ。
私はその時、
前を向き
自分の哀しみを
振り払うことに決めた。
そして
中断していた
このブログを再開した。
あの日から5年。
地震と津波と原発事故。
大きな痛手から
みな必死で
立ち上がって来た。
故郷に帰りたくても
帰れない人が
たくさんいるのに
いま
復興をけん引するべき
リーダーが
何もしていないのでは
みなの必死が
報われない。
その人が
一生懸命やった
経過や結果はない。
その人は何もしていない。
このブログで
他人の行いや
政治や国について
とやかく言うことは
ほとんどないが
復興を
けん引するべき人が
にやけながら
自己の勉強不足を
公言するのを見ると
書かずにはいられない。
今からでも遅くない。
勉強不足などと
笑って誤魔化さないで
しっかりと
一生懸命勉強して
復興支援のリーダーとして
相応しい人になって下さい。
あなたはそういう役割の
選ばれた人なのですよ。kyokukenzo