ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

マンション長屋の、着物つながり

2013-07-17 20:15:38 | 人間関係

恐れ入谷の鬼子母神 からほど近いこの地のマンションに引っ越してきて10余年。

お江戸下町のこの地でも、しょっちゅう着物を着て歩いていると、やはりそれなりに目立つようです。

浅草まで行くと、旦那衆のような方が、着流しで歩いていたり、公会堂で歌舞伎上演の際には着物のご婦人方が溢れるのでわかりますし、最近では何もイベントのない週末にも、おしゃれにきものを着こなした若い女性も見かけるようになってきました。

私はといえば、自宅のマンションを仕事で朝早くから着物で出かけたり夜遅く帰宅したり、疲れきってドロドロに着崩れたまま帰ってきたりするのを、何となく「ふーん」という目で見られているような感じを受けていました。そして時々お着物を粋に着こなして外出する70歳代の女性をお見かけしていました。

あちらも、よく着物で出かける私を気になってきたらしく、エレベーターに乗り合わせた時にご挨拶から「よくおきもの着ていらしているけど、お仕事なの?」と着物についてのお話をするようになりました。

そんなやり取りが繋がって、数年前に旦那様を亡くされてお一人暮らしという、その女性のお宅にお招きいただいてお薄を立てていただきながら、昔から着ておられるお着物を見せてただいたり、旦那様のお話や今のくらしや・・・そんなお話をしました。

マンションは本当に人のつながりが希薄で、建った当時に購入した私も同じマンション内でお話をするような方は極僅か、ほとんどがご挨拶程度です。

きものを着ていたことで、声をかけてもらえたご縁。世代が違っても共通の話題があり、ずっと共働きでお子さんの居られないその女性を、人生の先輩に思えたし、これからの私の人生に起こるかも知れないことを、少しずつ教授してもらえたらいいな、と思ったのです。

 

人生の先、いつかは、一人になるのです、多分。一人になったらどういう覚悟で、どんな風に腹を据えて高齢の自分を生きればいいのか。着物の粋な着こなしとともに、教えていただけたら嬉しいなー、と思ったのでした。

 

 

 

 


臨床美術と、行間を読む、こと。

2013-07-16 12:10:30 | 人間関係

**相変わらず、人とのコミュニケーションへの不安が深くなり、今更青臭いなーと思いつつ、混迷の模中。

 

来ました。

今年も「平成25年度 NHK全国短歌大会」 募集要項と大会のパンフレット

昨年、ビギナーズラックで1首入選しました。今年は春先から無謀に忙しくしてしまったため

短歌を詠む余裕もなく、しばらく離れていました。また、詠もうとしていますがカンが取り戻せないというか、

さらっと詠めません。

実は、詠めなくなった理由があります。それは、臨床美術に触れて考えたことにちょっと起因します。

++臨床美術協会サイトより 「臨床美術とは(一部抜粋)」

脳の活性化には、視覚的、直感的な作業や芸術活動が効果的だということも知られています。しかし、ただ絵を描けば脳が活性化するわけではありません。
偉大な美術家の中には「創作する際に普段とはちがうものの見方をする」と言う人がいます。これを脳科学を用いて理論付けたのがBetty Edwards(米)の研究です。
Betty Edwardsは、「ほとんどの人は左脳を使って絵を描いている」「右脳を使って描かせることにより才能とは関係なく、急速に絵が描ける」と説明しています。
臨床美術はこの理論を取り入れ、さらに五感を刺激し、感じる事によって美術表現が可能になることを実践しています。

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友人が、臨床美術の簡単なWSをやってくれました。まず、人が絵を描く時に、表現がいかにそれまで学習してきた知識を集約した「記号」として、絵を描くものであるか。

を体験させてくれました。

「太陽」「家」とか単語を聞いて5秒以内に描く、ことをちょっとやってみて

絵はひとにイメージを伝えるための記号であること

しっかりと伝わりやすい記号の絵は「左脳」で処理され描かれているものであること。

逆に、自分のなかのイメージだけを表現して他者との情報共有を意図していないように描かれた絵は、「子供の絵」と同じであり「右脳」で描かれた絵だということ。

そんな説明を受けたのでした。

<記号と左脳>、<自己のイメージ表現と右脳>、<コミュニケーション>についてその時考えたこと

左脳で適切に処理された記号を正確に使うことで、ミスの少ないコミュニケーションが可能だろう。逆に右脳で生成したイメージをそのまま「ぽんっ」と相手に手渡せば、間違った意図が伝わったり、何も伝わらす相手を困惑させるだけなのではないかと。

そのWSで作った「はにわ」

何かを伝える意図が全くない物体になっていますが隠喩を込めたつもりではあるのです。でも全く伝わらないですね。このときは「右脳でつくってね」という目的だったので、ある種「右脳全開」でよかったのですが。

 

話を短歌に戻します。私の短歌は、発想のオリジナリティーの強烈さを指摘されます。

イメージから発想する「言葉」、「言葉」から起草して切り取ってくる「風景」「イメージ」が、一般的な記号に合致しないのです。私が普通に考えるとそうなってしまう部分もあり、敢えてそう言う発想の訓練を自分に課しているところもあります。

私はますますコミュニケーション困難な域へ、自分が行ってしまうのではないかと、不安になったのです。

論理的に説明すること、は相手に正確に伝えることを目的とするので、そこに行間や揺れやカラー不明なものは正確な伝達の邪魔です。それはとても素敵な伝達方法で、そうしたいといつも思うのですが、文学や芸術はそうではないようです。自分が発する意味不明な曖昧な表現を、相手の捉え方を既定しないこと、を含めて、表現になる。

**** でも気づきました。

それでも、誰かに観てもらったり読んでもらったりすること、そしてそれによって相手にいい影響を与えること、を究極の目的とするなら、

言い換えるなら、自己表現が全くの一方通行やマスターベーションではイヤだと思うのであれば

解りにくい「ワタシ」というものを何らかの形で伝える「武器」=(技術) を持たなければならないのだろうということ。結局のところ、何かを表現したい欲求=誰かに何かを伝えたい に違いはないのです。

 

心に響く歌は、「スコーン!」と思いもよらず心を突き抜ける言葉を、見せてくれたりするのですよねー。

 表現するというのは、本当に自分を切り刻むようなものなんだな、と今更ながらに思いつつ、

今年も「全国短歌大会」へ応募します。果たして自己表現への「迷い」は吹っ切れるのか。

 

 

 


わかり合えないことを乗り越えること(世界報道写真展2013)

2013-07-14 10:27:51 | 生活改善プロジェクト

しばらく、放ったらかしにしておいたこちらのブログ

ブログやらSNSやら、twitterやら発信ツールが多すぎて、それぞれをどう「棲み分け」すればいいのかな。

とりあえず、ここは一応「匿名」なので、いいたいことを吐露する場にすることにしました。

匿名とはいえ、簡単に辿れちゃうので「完全匿名」にはなり得ないことは承知の上。web上での発言は、調べれば大抵出所は割れるので、完全匿名なんて存在しないのだと思います。

「方丈記」にしよう。ブログ名、後ほど変えます。

 

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東京都写真美術館で開催中の「世界報道写真展2013」を観ました。https://syabi.com/contents/exhibition/index-1862.html

毎年チャンスがある限り観るようにしています。こういう報道写真は、普通に生活していると目に出来ないからです。規制にひっかかるものが多いのでしょう。でも、こういうことも事実としてあること、そしてそれを単に芸術作品としてみてしまう自分がいること、いろいろなことを感じます。

今回は友人に付き合ってもらいました。

友人の感想

・西側(反イスラムのバイアスを感じる)

・展示の仕方のルール?が意味不明でよくわからない

・なぜいいのか、何がいいたいのか、さっぱりわからない作品が何点もある

 

若干機嫌を損ねてしまいました(笑)

私はどの作品が気になったのかと聞かれて

「女性が虐げられている作品が気になった」「イスラムの女性の?」

「それよりも、貧困から来る女性の置かれた状況の写真が気になった」「オランダでは売春は貧困層の仕事ではないよね?」

むーん。私はそこで黙ってしまったのです。

女性が虐げられているテーマの作品は何点かありました。イスラムの女性の差別を物語るもの、移民としてアフリカからヨーロッパへ渡り草むらで売春生活で生活する女性たちの写真、夫に劇薬を浴びせられ顔が崩れたまま生きている母娘の写真、売春が合法であるオランダで一人娘を育てているシングルマザーの写真

特に売春に付いては男性とは意見が食い違いますね、仕方ないかもしれません、男性は「買う」方です。私も、ここでこれ以上私がなぜこの人たちが貧困故にこういう生活をするのか、心の中ではどう感じているのか、を主張したところで、実際そういう女性を買う側の彼が、私の主張を納得はしないだろうと思い口をつぐみました。

経済的に普通かそれ以上、そして教育や環境が整っていれば、体を売って生計を立てる生き方はハイリスクなので自ら進んでは選ばないはずです。そして夫からの暴力も多くは男女ともに生育歴も含め貧困に原因があることが多い、ハイソサイアティの男性でDVの人もいますが。

男性に抗えないことは、多くの場合、経済的な貧しさが女性の側の事情でしょう。

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そんなことを話せなかったのです。わかり合えないことを確認するだけの結果を見るのが怖かったからです。

最近、おなじような経験をよくします。ああ、これ以上言っても、わかってもらえないから黙ってしまおう。

男女どちらのの友人でもあります。所詮人のことなんかわからないものだから、と思って生きて行けば、ある程度楽なのかもしれないけれど、そうやって厚い仮面の下に自分を隠して生きて行くことは、自分の人生においてだけではなく、社会を形成するという意味でも、果たして意味ある行為なんだろうか?

もっと、わかり合えないけれども自説を述べ合う方がいいのではないか。しかし自分にその勇気も、戦う気力も、そんな好戦的な生き方を生け入れる社会的土壌もないです。

どちらがいいのか、まだわかりません。

++++

「世界報道写真展2013」 東京都写真美術館 8/4まで 

私も「西側バイアス」を感じました。そして、展示方法にも主催者の意図的な偏向のようなものを少し感じました。作者の意図を曲げていないか?と感じる展示が何点かあったように思います。

ですが、「(日本以外の世界の)西側から見た世界」を知るには、いいチャンスだと思います。

日本にいると、本当に世界は平和なんじゃないか、と錯覚しさえ起こしかねません・・・

 

大槌復興刺し子プロジェクトに出会っていとへんの事情を思う

2012-11-19 20:46:05 | 工芸

地元の「エコ(環境)フェスタ」というイベントに「大槌復興刺し子プロジェクト」の商品の出店が出ていました。

仕事柄、布/糸/紙/日本的 なものの匂いにつられていきました。

Tシャツ買いました。

岩手県大槌町の復興を支援するプロジェクトとして、NPOテラ・ルネッサンス が運営しています。

災害にあって、避難所でする事も無く、家も希望もするべき仕事も失って、失意の女性たちが、何か出来る事があれば心が晴れるのではないか、それが収入に繋がればもっと希望もわくのではないか、という趣旨で、場所もとらず、道具も最小限でできる針仕事を、と始めたのだそうです。

刺し子の技術や材料は、飛騨刺し子の会社の支援と指導を受けたそうです。

商品のかわいいパーカーを着て販売をしていた担当の方の一言が私の心を突きました。

「このプロジェクトを一過性のものとせず、ゆくゆくは地場産業として地域の女性の手で大槌の特産品として根付いて行く事を目指しています」

地域(田舎)、女性の仕事、地場産業、継続・・・私がずっと考え手づけていること

「糸へん産業」と当事者は言いますが、繊維に関わる産業(織物)は、もともと農家などの農閑期の女性の仕事、古くは自分の家族の衣服を作るため、そしてそれを売って重要な副収入とするために長い間女性の間で受け継がれてきた技術です。

それがだんだんと大きな需要を喚起して、需要の同大に伴って産業として大きくなり、産業革命を経て女性の手仕事から機械生産へ、日本の経済を担う一大産業へと発展した業界です。

しかし、今繊維業界は苦境にあります。日本人の高い労働コストでは、他の途上国で生産されたものと競争が出来なくなりました。日本お得意の技術の高度化で差別化を図ろうとしても、小ロット多品種、常に新しいものを求められるサイクルでは、日本においては大きな利益を生む産業ではなくなってしまいました。

日本独自の高度な技術も多くある織物、しかしそれで多く利益を生まないのであれば、産業として成り立つのは難しい。かつての繊維メーカーの大企業は、とっくに元々持っている技術基盤を生かして炭素繊維などの新しい分野へ出て行ってしまいました。

残るは細々とした、小さな工場や職人さんの手で生み出される、美しい織物たちですが、先行き不透明です。

これらの技術はやはり残して行きたい、しかし利益が少ないので携わる人は減って行く。

そうなると、農家の女性達が担ってきた、副業としての道へ戻るのが正解なのではないか・・・、どうしてもそういう気がしてしまうのです。

そして、子供がいて8時間働けないとか、高齢になったが元気でまだ働きたいし働かざるを得ないとか、農家や自営業などで自らも担い手になっている人たち(女性に限りません)の二次的収入の道として、こういう仕事は案外有効なのではないかと感じるのです。

いとへん産業の苦境の突破口を期待してはいけないのでしょうか。

ただ、そんな私の思いを、今現在職人の誇りをかけて必死に工場を守っている職人さんには、言えません。

 

この「大槌復興刺し子プロジェクト」が、「復興」の二文字が取れてもずっと「大槌刺し子」ブランドとなればいいな、と思います。

 

それと、デザインって大事だな、と思いました。図柄のデザインはプロのデザイナーさんんお手によるものだそうです。デザインの洗練度、もコンセプトと同じように買ってもらうためには大事だと思います。

 

 


tea季節

2012-11-08 07:44:35 | おいしいもの

11月になり、秋も終盤で寒さもぐっと増してきました。

私は一年中、お茶や珈琲を欠かせないのですが、寒くなると冷えた体を温めたいので温かいお茶を頻繁に飲みます。

珈琲はもちろん好きですが、寒い時期はミルクティーの方が欲しくなります。体を冷やす珈琲と温める紅茶の違いでしょうか。

最近見つけて美味しかったお茶、以前から好きだったお茶、あれこれ

◆レモングレス入り釜炒り茶(緑茶)

佐賀県の嬉野は独特の製法の「嬉野茶」で有名なお茶どころです。

家族の実家があるのでしばしば訪れる土地なので、お土産はお茶が一番。お茶農家も製茶工場も、お茶屋さんも市内にたくさんあります。

嬉野茶の釜炒りという製法は、他のお茶産地では作られない独特の製法で、火入れという行程に特徴があり、お茶は香ばしくて金色、緑色にはなりません。

その釜炒り茶にお隣町、武雄町で作られるレモングラスをブレンドした、さっぱりとした飲み口です。緑茶として飲むより、ハーブティと思って飲んだ方が違和感が無いかも。

◆和紅茶

日本産の紅茶で、嬉野でもさかんに生産されていますが、静岡や八女産もよくみかけます。紅茶も緑茶もお茶の葉としては同じ(ちなみにウーロン茶も同じ)、生のお茶の葉から乾燥した茶葉ににする方法が違うだけなので、お茶であれば紅茶も烏龍茶もできます。

でも、やはり土地が違えば、同じお茶の木でも違いが出るもの、日本の緑茶の木で作った紅茶は、香りが淡くて味も薄いです。産地が無農薬有機栽培、にこだわっているからかもしれません。私はこの味の淡いところが好きです。セイロンやインドの紅茶、製造会社で言うとフランスやイギリスの紅茶は、香りも味も強くて、しばしばカフェイン酔いをしてしまいます。

◆セーデルブレンド(ザ・ティーセンター オブ ストックホルム)

 

北欧スウェーデンのブランドのフレーバーティ。

日本にも輸入されて、北欧らしいすてきな缶入りでも販売されています。このブランドの紅茶もオリジナリティが高くて、ノーベル賞授賞式の晩餐会で出されるとよく言われています。

このセーデルブレンド、茶葉を見ると青い花とかバラの花とか入っていて強く甘い香りですが、入れてみると爽やかな甘さと鼻を抜ける花の香りに熱烈なファンがいる紅茶。私もこれを初めて飲んだときから、ずっと好きです。ちなみに私は銀座の伊東屋tea roomでこのお茶に出会いました。ここで茶葉も買う事が出来ます。浅草のこれも知る人ぞ知るカフェ「ムルソー」でも買えます。

素敵な缶はいかにも北欧です

 

このブランドは、他にも「スパイスブレンド」「アールグレイスペシャル」のフレーバーティを出していますが、どれも大好きです。他とは何かが違う、独特の香りです。

◆凍鳥烏龍茶

有名な台湾茶、それも高級茶。烏龍茶はハマると一財産潰すと言われているほど、高級なものは際限なく高価です。また中国の人はお茶好きで、きっとハマってしまうのでしょうね。それにしてもこの凍鳥烏龍茶、茶葉も味も全く甘くないのに、香りは馥郁として甘い。その甘さも、花の甘さや蜜や砂糖の甘さではなく、もっとリラックスできる甘さ。でも私は、烏龍茶は飲むと眠れなくなりがちなので、夜のリラックスより昼間のリフレッシュに飲む方がいいのかも。