現代は、プロが職業人でいること、が難しい時代になってきました。
プロフェッショナル(専門的技術や経験を持って職業としてそれを生きる糧にしている人)で
居続けることが困難な理由を考えてみました。
・一般の人が扱えない技術等を持つ専門家であるゆえに、大きな責任を負わされる(ハイリスク)
・これまで専門家のみ取り扱える領域だったことが、技術や情報技術の進歩により一般の人が扱えるようになったので、領域が犯される
・専門技術やそのことに対する需要が、高速に複雑化・高度化することにより、高コストになるが、日本の経済状態ではそのコストに耐えられない
そんなところが思い当たりますが、技術の進歩は確実に「技術」の平準化を推し進めているのですね。
ここで「技術」と言ったのは、一般ユーザーが容易に扱えるように作り上げられた後のユーザー技術であって
それの開発の為の基礎的技術や研究や歴史や経験による施行錯誤は、含まれません。
そんな基本的なところ、面倒くさいところ、時間とコストがかかるところを、
平気ですっ飛ばすことが出来るようになったのだ、と思っています。
それは多くの一般の人にとっては幸せなことだし、自分の手で何かが出来るチャンスや可能性が広がることなのですから
技術の進歩は素晴らしい恩恵なのだと思います。
もう一方で、専門技術は、より専門的に深化、先端化してどんどん先へ行くことを要求されているように見えます。
一般人が手の届かない領域を、次々と開発していかなければならない、フロンティアになっているかのようです。
無資源技術立国日本の宿命的要求を突きつけられているように思いますが、それにかかるコストが、もはや稼げない、という足もとの砂が崩れ落ちているかのような現状もあります。
さて、この「すっ飛ば」されてしまった部分はどうなるんだろう?
お金と時間がかかり、それに見合ったお金を十分稼げない地味な分野。
このまま「すっ飛ばし」続けていっていいものだろうか…。
たとえば、デジタルカメラの出現で、写真は比較的容易に、美しくそれらしく撮れるようになりました。
しかし、このカメラを自分で修理点検、改造出来る人は少ないでしょうし
そもそもどういう仕組みで写真が写るのか、どういう仕組みでデータになるのか、何も知らずともきれいな写真は撮れ、デジタルデータで保存できるのです。
構図や光の仕組みについての知識や、人間を取る場合ならコミュニケーションで被写体の深部を探る技術も
なくても大丈夫なのです、優秀なカメラが十分補ってくれるので。
でも、そういう知識経験技術を身に付けた「写真を写すプロの人」はもはや必要ないんでしょうか。
プロフェッショナルになるためには、時間とコストがかかります。
その時間とコストを省略しても、そこそこ75点の結果が得られるとしたら…
その世界はまるで、ファストファッションの洋服のようです。
そこそこ75点を、素人が楽しく気軽に楽しめることが悪いとは思いません。
しかし残りの35点を無視し続けていると、技術はいずれ崩壊すると思うのです。
技術の進歩で省略できた残りの35点分の労力とお金を、是非面倒くさくて報われない経験や作業や研究に回す仕組みを
作るべきだと思います。
その35点分を、無駄に放蕩してしまった結果が、ギリシャの危機的国難のような気がするのです。
バブルはとうに去りました、世の中誰も浮かれていません。
だったら、先端技術の水面下で、もっと地味で単調で日の当らない作業を繰り返している世界に
興味と尊敬の念、と対価を払う意識を持ちたいと思います。
なにより、多くの人が75点と99点の差異を見分けられる、感じ取れる、社会であることが文化的成熟だと思います。
日本は十分に豊かになり、もはや下り坂にさしかかっているとも言えます。日本が成熟した社会へと、次のステージへの階段を上がれることを、日本が大好きな私は願ってやみません。
プロフェッショナル(専門的技術や経験を持って職業としてそれを生きる糧にしている人)で
居続けることが困難な理由を考えてみました。
・一般の人が扱えない技術等を持つ専門家であるゆえに、大きな責任を負わされる(ハイリスク)
・これまで専門家のみ取り扱える領域だったことが、技術や情報技術の進歩により一般の人が扱えるようになったので、領域が犯される
・専門技術やそのことに対する需要が、高速に複雑化・高度化することにより、高コストになるが、日本の経済状態ではそのコストに耐えられない
そんなところが思い当たりますが、技術の進歩は確実に「技術」の平準化を推し進めているのですね。
ここで「技術」と言ったのは、一般ユーザーが容易に扱えるように作り上げられた後のユーザー技術であって
それの開発の為の基礎的技術や研究や歴史や経験による施行錯誤は、含まれません。
そんな基本的なところ、面倒くさいところ、時間とコストがかかるところを、
平気ですっ飛ばすことが出来るようになったのだ、と思っています。
それは多くの一般の人にとっては幸せなことだし、自分の手で何かが出来るチャンスや可能性が広がることなのですから
技術の進歩は素晴らしい恩恵なのだと思います。
もう一方で、専門技術は、より専門的に深化、先端化してどんどん先へ行くことを要求されているように見えます。
一般人が手の届かない領域を、次々と開発していかなければならない、フロンティアになっているかのようです。
無資源技術立国日本の宿命的要求を突きつけられているように思いますが、それにかかるコストが、もはや稼げない、という足もとの砂が崩れ落ちているかのような現状もあります。
さて、この「すっ飛ば」されてしまった部分はどうなるんだろう?
お金と時間がかかり、それに見合ったお金を十分稼げない地味な分野。
このまま「すっ飛ばし」続けていっていいものだろうか…。
たとえば、デジタルカメラの出現で、写真は比較的容易に、美しくそれらしく撮れるようになりました。
しかし、このカメラを自分で修理点検、改造出来る人は少ないでしょうし
そもそもどういう仕組みで写真が写るのか、どういう仕組みでデータになるのか、何も知らずともきれいな写真は撮れ、デジタルデータで保存できるのです。
構図や光の仕組みについての知識や、人間を取る場合ならコミュニケーションで被写体の深部を探る技術も
なくても大丈夫なのです、優秀なカメラが十分補ってくれるので。
でも、そういう知識経験技術を身に付けた「写真を写すプロの人」はもはや必要ないんでしょうか。
プロフェッショナルになるためには、時間とコストがかかります。
その時間とコストを省略しても、そこそこ75点の結果が得られるとしたら…
その世界はまるで、ファストファッションの洋服のようです。
そこそこ75点を、素人が楽しく気軽に楽しめることが悪いとは思いません。
しかし残りの35点を無視し続けていると、技術はいずれ崩壊すると思うのです。
技術の進歩で省略できた残りの35点分の労力とお金を、是非面倒くさくて報われない経験や作業や研究に回す仕組みを
作るべきだと思います。
その35点分を、無駄に放蕩してしまった結果が、ギリシャの危機的国難のような気がするのです。
バブルはとうに去りました、世の中誰も浮かれていません。
だったら、先端技術の水面下で、もっと地味で単調で日の当らない作業を繰り返している世界に
興味と尊敬の念、と対価を払う意識を持ちたいと思います。
なにより、多くの人が75点と99点の差異を見分けられる、感じ取れる、社会であることが文化的成熟だと思います。
日本は十分に豊かになり、もはや下り坂にさしかかっているとも言えます。日本が成熟した社会へと、次のステージへの階段を上がれることを、日本が大好きな私は願ってやみません。