紙の新聞では、悪徳政治家の深く暗い闇は葬れない・・・
がしかし、新聞が紙からネットになってからも、ジャーナリズムの魂は抜き取られたままである。もっと言えば、昭和の時代に存在したジャーナリズムの正義は失われたままである。
つまり、「社長室の冬」の主人公・青井聡太(三上博史)が声太に主張する”紙がネットになってもジャーナリズムの魂を守る”事は、ドラマでは成し遂げられても、現実には成し得ない事は歴史が明確に証明している。
昭和の時代には機能した筈のジャーナリズムの正義が、ネットの時代になり、その魂を失ってしまう。いや、悪徳政治家やその権力により葬り去られたと言った方が正確であろうか。否それとも、ジャーナリズムの魂や正義というものは、所詮は記者の自己満足に過ぎなかったのだろうか。
ネットでジャーナリズムは救えるのか?
ドラマは、新聞社を買収しようとする外資系IT企業であるAMCジャパン社長・青井の視点で描かれてはいるが、元々身売りの話は、日本新報社・社長の新里明(笹野高史)と記者の南康祐(福士誠治)が進めていたものだ。
そして、その買収に乗ったのが青井だが、彼も元々は日本新報の記者だったのだ。
彼が提示した買収条件は”現在の紙の新聞の発行を停止し、全てネットに移行する”事だ。が、新里は反対する社員らをよそ目に、前社長の遺言を引き継ぎ、身売り話を水面下で進めようとする。
一方で、強引に買収を推し進める青井と、何とか時間稼ぎをする新里の間で苦悩する南だが、この男の存在は曖昧に希薄にも思えた。
反対派のキーパーソンは、新報社が抱える5000人の現場社員達や全国隅々にまで網羅する販売店ではなく、日本新報の創業者で筆頭株主でもある長澤英明(田中泯)と民事党のドンである三池高志(岸部一徳)の2人だ。
青井は買収話を進めようと、まずは彼自身が過去に恨みを持つ三池議員の排除に掛かる。青井には、20年前に三池に不正疑惑のネタを潰された苦い記憶があった。以来、政治家の不正に異常なまでの執念と復讐を燃やす彼は、新報社の記者を辞め、現在の地位に上り詰めていた。
つまり、最初から青井には新報社を奪い取り、ネットにジャーナリズムの正義を注ぎ込み、悪徳政治家を糾弾する計画を立てていた。記者の本能と魂がむき出しになった青井だが、三池議員に付き纏う金の問題をネタにし、ネット上で拡散しようと試みるが・・・
同タイトルの堂場瞬一の原作では、新報社の記者・南が主人公だが、ドラマでは青井が主役となる。故に、南演じる福士誠治は見てても明らかに影が薄く、線も細い。事実、主役を三上博史に据えた事で強烈なインパクトを醸し出してた様に思えた。
外資系IT企業が日本政府の古い体質を排除しようとする、シンプルな展開のドラマだが、全5話完結というコンパクトさも手伝い、スッキリした仕上がりになっている。
一方で、”ドナルド・トランプを彷彿とさせる暴君を演じる”とWOWOWの紹介文にはあるが、青井は記者上がりの外資系ネット通販ショップの日本社長に過ぎない。それにやってる事は、所詮は老舗企業の転売である。
ただ、今どきの外資系通販ショップが長い歴史を誇る老舗新聞社の全社員の雇用を約束できる筈もないし、現実的に見て、救える筈もない。事実、アマゾンジャパンが読売新聞を吸収する様なものだろうか。
が所詮、老舗企業とは言え、文屋は文屋に過ぎないし、記者上がりの転売屋にそんなプロジェクトがなし得る筈もない。
だが展開は結構シリアスである。
自らの衰えを自覚する三池議員は総理にも反故にされ、議員辞職し、最後のキーパーソンは長澤だけになったが、某TV局と吸収・合併する事で新報社の身売りを阻止しようと、一発逆転の策を企てる。
一方で、長澤の本性を知る青井だが、自身の全てを賭け、最後の闘いを長澤に挑む。
結果から言えば、フェイクニュースの拡散により、AMCへの身売り話が消え去る訳だが、救いは青井がジャーナリズムの魂を最後まで捨てなかった事だ。
一方で長澤はその魂を捨て去る事で、闘いには勝ったが、吸収された日本新報は大幅に縮小された。つまり、事実上の新聞社の敗北である。
最後に、ジャーナリズムの魂だけが残り、不正に関わった者らは全て表舞台から姿をし、フェイクニュースが紙の新聞を駆逐する駆逐する結果になったが、ここら辺は流石に”作られ”感のあるドラマであり、現実離れしてはいる。
転売屋に復帰した青井が、中国企業からAMCを買収する様に提案を持ちかけられる所で幕を降ろすが、その結果が新報社買収劇の失態と同じものになろう事は、容易に想像できる。
最後に
このドラマは2017年に製作されたが、その頃は既に、自宅のガスと新聞と固定電話は止めていた。今思うと、その判断は大正解だった。
ガスはIHに、新聞はネットに、固定電話はスマホにとって変わる事は容易に予想できたからだ。事実そうなったが、ジャーナリズムが魂を失い、メディアが正義と公平さを失うのも、これもまた容易に想像できた事だった。
映画でも登場したフェイクニュースだが、これも結局は長続きしなかった。
原作を読んだ事はないが、ドラマとしてみれば非常に良く出来た秀作だと思う。
ジャーナリズムに人生と魂を捧げるつもりだった青井だが、結局は”企業の転売屋”という安っぽいポジションに成り下がる。一方、社長室から地方の記者として再起を期す南だが、失脚するのは目に見えている。
冒頭でも述べた様に、紙の新聞が報じてきた正義やジャーナリズムの魂というものは、本当に存在するのだろうか。所詮は、文筆や言葉のお遊びであり、記者の自己満足に過ぎなかったのではないか。
現実には、昭和の時代に旺盛を誇ったお茶の間の娯楽の王道であったテレビも、今やネットストリーミングに取って代わり、映画も劇場からタブレットに移行しつつある。
数年前に話題を独占した4Kも8Kテレビも、どうやら不発に終わり、新聞・ラジオ・テレビなどの報道機関を支えてきたマスメディアも、全ては死滅するかも知れない。
一方で、紙であろうがネットであろうが、真実を書く人の、真の情報を配信する人の魂だけが燻り続ける。少なくとも、販売部数やフォロワーの数はジャーナリズムの魂にはなり得ない。もっと言えば、フェイクや陰謀説は情報の肥溜めに過ぎない。
つまり、確率や支持は低くても、真実と正義は尊いのである。
紙の新聞と世界中を網羅するネット通販・・・一見全く異なるカテゴリーに見えるが、そこにはネットメディアの新たな未来が隠されてる様にも思える。
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