シラノ・ド・ベルジュラック 兵庫県立芸術文化センター
http://www.majorleague.co.jp/kouen/shirano/index.html
例によって、宝塚時代から安寿ミラを追っかけている母のお供で。同じ所で前に見た「ハムレット」と同じく栗田芳宏の演出&宮川彬良の音楽。
この栗田という人の演出がいつ見ても捻ってるというか、常に某かの大胆なアレンジを加えている感じで、その変化球具合が実は結構私の好みだったりします。
今回は、主役のシラノを歌舞伎俳優の市川右近氏が演じるということで、フランスの話なのに何故か舞台に■■■■■■こんな感じの幕がかかってて歌舞伎風。しかも何故か舞台の上に客席がある???
最初の場面である「芝居小屋」を基本的な舞台装置とし、舞台上の席にいる観客を「観客役のエキストラ」に見立てた所から物語が始まる、という凝った趣向。その後は場面転換の度に「○○の場」と書かれた札を持った人が出て来るだけで、セットは一切動かさない。…うーん、先週見に行った劇団四季とは正に対照的。ちなみに音楽はアコーディオンとバイオリンの生演奏で、たまに奏者が奏者の役で舞台の上に出て来ます。こういう、舞台と現実の境を曖昧にするような演出が栗田さんて方の得意ワザなのかな?個人的には好みです。
以下、例によって全力でネタバレです。
***
主人公のシラノは剣の腕に長け、文才にも恵まれて弁舌巧み、そして何より気風の良い人気者。これを歌舞伎役者の右近氏が、江戸っ子下町風のべらんめぇ調で、立て板に水を流すように演じるのです。
パリ下町の伊達男を、時代劇の無頼に見立てた演出。パンフレットにも眠狂四郎や丹下左膳の名前が出ていましたが、相手が王侯貴族だろうと臆することなく自分の筋を通し、権力者を敵に回して平然としているアウトローな生き様は確かに無頼。眠の旦那や斬九の旦那を彷彿とさせる所があって、柴錬のファンとしては中々ツボかも。
そして狂四郎や左膳がコンプレックスを抱えているのと同じように、シラノにも大きなコンプレックスがありました。それが即ちデカい鼻。こんなみっともない外見の男が、女の子に相手にして貰える訳がない!と言う訳で、愛しい従妹のロクサアヌにも想いを打ち明けることが出来ません。
ていうか実際ロクサアヌはシラノの隊の新人、ハンサムな若者クリスチャンに夢中。クリスチャンの方もロクサアヌに一目惚れ。
…見た目はアレだけど才能に溢れた男と、見目麗しい若者が一人の女を取り合う、という構図は「オペラ座の怪人」と同じですね。しかしシラノはファントムくんと違って大人です。寧ろとてもいい人です。
男前のクリスチャン、実は口下手で、話すにも文章を書くにもセンスゼロ。なのでせっかく意中の人ロクサアヌに惚れられてるのに、ラブレターさえ書けません。
という訳で、男二人がここで結託。クリスチャンの外見+シラノの文才=最強のモテ男誕生。ロクサアヌはもちろんメロメロ。
戦争が始まって最前線に駆り出されても、出征先からせっせとクリスチャン名義でロクサアヌにラブレターを書き続けるシラノ。熱烈な愛の言葉に、クリスチャンへの想いを募らせるロクサアヌ。そして…。
***
私がこの話を知ったのは、多分道徳の教科書だったと思います。その時の印象では、クリスチャンとロクサアヌの幸せのために身を引く優しくて可哀想なシラノ、という感じだったんですが。
今回見て思ったのは、実は3人の中で一番幸せだったのがシラノなんじゃないのか?ということでした。
それを象徴するのが、最後の最後で唐突に出て来たエピソード。
シラノと犬猿の仲だった役者が、シラノの作った戯曲をパクって演じたことに憤る友人。しかしシラノは盗作されたことよりも、その戯曲が観客にウケたかどうかを知りたがる。「拍手喝采を受けた」と聞き、「それでいい」と微笑むシラノ。
表現者としての歓びは、大きく分けて二つあると思うのです。
一つは自分が名を上げ、有名人としてちやほやされること。
もう一つは、自分の創り出したものが人に受け容れられること。即ち、自分の才能が認められること。
通常、この二つはセットで同時にやって来ます。創作者が自分の名前で作品を世に出せば、作品が認められると同時に自分の名前も上がります。
しかし、実際の作者と、作品に付いたクレジットの名前が違っている場合はどうでしょう。
前者の名誉は表向きの作者のものとなりますが、その才能を認められたのは無名の真の作者です。
自分の作品を盗作され、他人の名前で愛を語り続けたシラノは、前者の名誉を得る事は出来ませんでした。
でももう一つの歓び、自分の才能を愛され、認められるという、表現者としての真の歓びは享受出来たはず。ロクサアヌの心を虜にした愛の言葉は、クリスチャンではなくシラノから生まれたものなのだから。
ああ…可哀想なクリスチャン。
彼の方こそ、空しかっただろうなあ…と思います。最初の内こそ、ちょっと口の上手い先輩の手を借りて意中の彼女をモノにできた!と喜んでいただろうけど。彼女はどんどん、彼の言葉や手紙の方に惹かれて行く。だけどその言葉や手紙は、彼自身の考えたものではない。彼女が愛しているのは、本当は自分ではないと分かってしまう。
そしてロクサアヌも。せっかくクリスチャンが、ボロを出す前に犬死にしてしまったんだから、シラノがあのまま秘密を墓まで持って行けば、彼女も一生クリスチャンとの美しい想い出に生きられたと思うんですが。
最後の最後にバラしちゃうのね、シラノ。やっぱり自分だと気づいて欲しかったシラノの気持ちも分かるんですが、でもロクサアヌにして見れば、自分が本当に愛していたのは別の男だったと、その男が死ぬ直前に知らされるなんて、ある意味残酷な話だなあと思いました。
***
という訳で、この話で一番印象に残ったのが、「例えその作品が自分のものだと分かって貰えなくても、その作品がウケればそれは即ち自分の才能が認められたということで、表現者にとっては凄い幸せなことなんじゃないかなあ」ということでした。
逆に言えば、盗作で世に出てもそれって凄く空しいことですよね。お金や名誉は手に入るけど、認められたのは自分自身の才能じゃないから。
パンフレットではシラノを「恋と冒険に生きる道化師」と表現していたけど、恋の主役のように見えて、実際にはシラノの作品の代弁者に過ぎなかったクリスチャンの方が「道化師」なのかなと思いました。
http://www.majorleague.co.jp/kouen/shirano/index.html
例によって、宝塚時代から安寿ミラを追っかけている母のお供で。同じ所で前に見た「ハムレット」と同じく栗田芳宏の演出&宮川彬良の音楽。
この栗田という人の演出がいつ見ても捻ってるというか、常に某かの大胆なアレンジを加えている感じで、その変化球具合が実は結構私の好みだったりします。
今回は、主役のシラノを歌舞伎俳優の市川右近氏が演じるということで、フランスの話なのに何故か舞台に■■■■■■こんな感じの幕がかかってて歌舞伎風。しかも何故か舞台の上に客席がある???
最初の場面である「芝居小屋」を基本的な舞台装置とし、舞台上の席にいる観客を「観客役のエキストラ」に見立てた所から物語が始まる、という凝った趣向。その後は場面転換の度に「○○の場」と書かれた札を持った人が出て来るだけで、セットは一切動かさない。…うーん、先週見に行った劇団四季とは正に対照的。ちなみに音楽はアコーディオンとバイオリンの生演奏で、たまに奏者が奏者の役で舞台の上に出て来ます。こういう、舞台と現実の境を曖昧にするような演出が栗田さんて方の得意ワザなのかな?個人的には好みです。
以下、例によって全力でネタバレです。
***
主人公のシラノは剣の腕に長け、文才にも恵まれて弁舌巧み、そして何より気風の良い人気者。これを歌舞伎役者の右近氏が、江戸っ子下町風のべらんめぇ調で、立て板に水を流すように演じるのです。
パリ下町の伊達男を、時代劇の無頼に見立てた演出。パンフレットにも眠狂四郎や丹下左膳の名前が出ていましたが、相手が王侯貴族だろうと臆することなく自分の筋を通し、権力者を敵に回して平然としているアウトローな生き様は確かに無頼。眠の旦那や斬九の旦那を彷彿とさせる所があって、柴錬のファンとしては中々ツボかも。
そして狂四郎や左膳がコンプレックスを抱えているのと同じように、シラノにも大きなコンプレックスがありました。それが即ちデカい鼻。こんなみっともない外見の男が、女の子に相手にして貰える訳がない!と言う訳で、愛しい従妹のロクサアヌにも想いを打ち明けることが出来ません。
ていうか実際ロクサアヌはシラノの隊の新人、ハンサムな若者クリスチャンに夢中。クリスチャンの方もロクサアヌに一目惚れ。
…見た目はアレだけど才能に溢れた男と、見目麗しい若者が一人の女を取り合う、という構図は「オペラ座の怪人」と同じですね。しかしシラノはファントムくんと違って大人です。寧ろとてもいい人です。
男前のクリスチャン、実は口下手で、話すにも文章を書くにもセンスゼロ。なのでせっかく意中の人ロクサアヌに惚れられてるのに、ラブレターさえ書けません。
という訳で、男二人がここで結託。クリスチャンの外見+シラノの文才=最強のモテ男誕生。ロクサアヌはもちろんメロメロ。
戦争が始まって最前線に駆り出されても、出征先からせっせとクリスチャン名義でロクサアヌにラブレターを書き続けるシラノ。熱烈な愛の言葉に、クリスチャンへの想いを募らせるロクサアヌ。そして…。
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私がこの話を知ったのは、多分道徳の教科書だったと思います。その時の印象では、クリスチャンとロクサアヌの幸せのために身を引く優しくて可哀想なシラノ、という感じだったんですが。
今回見て思ったのは、実は3人の中で一番幸せだったのがシラノなんじゃないのか?ということでした。
それを象徴するのが、最後の最後で唐突に出て来たエピソード。
シラノと犬猿の仲だった役者が、シラノの作った戯曲をパクって演じたことに憤る友人。しかしシラノは盗作されたことよりも、その戯曲が観客にウケたかどうかを知りたがる。「拍手喝采を受けた」と聞き、「それでいい」と微笑むシラノ。
表現者としての歓びは、大きく分けて二つあると思うのです。
一つは自分が名を上げ、有名人としてちやほやされること。
もう一つは、自分の創り出したものが人に受け容れられること。即ち、自分の才能が認められること。
通常、この二つはセットで同時にやって来ます。創作者が自分の名前で作品を世に出せば、作品が認められると同時に自分の名前も上がります。
しかし、実際の作者と、作品に付いたクレジットの名前が違っている場合はどうでしょう。
前者の名誉は表向きの作者のものとなりますが、その才能を認められたのは無名の真の作者です。
自分の作品を盗作され、他人の名前で愛を語り続けたシラノは、前者の名誉を得る事は出来ませんでした。
でももう一つの歓び、自分の才能を愛され、認められるという、表現者としての真の歓びは享受出来たはず。ロクサアヌの心を虜にした愛の言葉は、クリスチャンではなくシラノから生まれたものなのだから。
ああ…可哀想なクリスチャン。
彼の方こそ、空しかっただろうなあ…と思います。最初の内こそ、ちょっと口の上手い先輩の手を借りて意中の彼女をモノにできた!と喜んでいただろうけど。彼女はどんどん、彼の言葉や手紙の方に惹かれて行く。だけどその言葉や手紙は、彼自身の考えたものではない。彼女が愛しているのは、本当は自分ではないと分かってしまう。
そしてロクサアヌも。せっかくクリスチャンが、ボロを出す前に犬死にしてしまったんだから、シラノがあのまま秘密を墓まで持って行けば、彼女も一生クリスチャンとの美しい想い出に生きられたと思うんですが。
最後の最後にバラしちゃうのね、シラノ。やっぱり自分だと気づいて欲しかったシラノの気持ちも分かるんですが、でもロクサアヌにして見れば、自分が本当に愛していたのは別の男だったと、その男が死ぬ直前に知らされるなんて、ある意味残酷な話だなあと思いました。
***
という訳で、この話で一番印象に残ったのが、「例えその作品が自分のものだと分かって貰えなくても、その作品がウケればそれは即ち自分の才能が認められたということで、表現者にとっては凄い幸せなことなんじゃないかなあ」ということでした。
逆に言えば、盗作で世に出てもそれって凄く空しいことですよね。お金や名誉は手に入るけど、認められたのは自分自身の才能じゃないから。
パンフレットではシラノを「恋と冒険に生きる道化師」と表現していたけど、恋の主役のように見えて、実際にはシラノの作品の代弁者に過ぎなかったクリスチャンの方が「道化師」なのかなと思いました。
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