TBA

(仮)

調和と本能

2016-06-12 | 日記

水曜日あたりから毎日、

天気予報は雨マーク。

そのわりにはちっとも降らなくて、

むし暑かったけど、

きょうはやっと雨。

しとしと降ってる感じで、

ちっとも涼しくはならないけど。




エアコンのそうじして疲れる。

自分一人だとつけないけど、

やっぱり人が集まると暑いし。

一か所だけでリタイア。

でもどうせなら、

全部やっとけばよかったってあとで後悔する。




NHKで、曜変天目茶碗の番組を見た。

焼き物って、それでなくても、

思いどおりにはなかなかできあがらなくて、

無言でたたきこわしてるっていうイメージがあるけど、

ほんとにどうやって作られたのか、

わからなくなってしまったものだと、

試行錯誤の繰り返しになってしまうんだろうな。

窯のそばにベッドをおいて30時間つきっきり。

なにやら窯の温度の微調節をしてたり、

湿度が足りん、とかで部屋に水を吹きかけたり。

なんかすごかった。

化学的なものもあるんだろうけど、

勘と経験も重要なんだろうな。

ご家族いたら大変だろうなと思ったら、

やっぱり奥さん大変そうだった。

で、同じことをしていた父親に反発してたのに、

やっぱり同じ道を歩んでるっていうのもなんかすごいし。




「美の巨人たち」の太陽の塔もよかった。

遠くから見たことはあるけど、

まぢかで見たことはたぶんない。

いや、民族博物館行ったことあるから行ってるはず。

なんかPLの塔とかぶる印象。


太陽の塔の中にあった模型はなくなっちゃったみたいだけど、

第4の顔もなくなってるような状況だとしかたないのかも。

こういうところが日本人のよくないところなんだろうな。


岡本太郎の日めくりカレンダーだったらほしいかも。

「人類は進歩なんかしていない」

大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」に、

真っ向からぶつかっていくのはすごい。


でも、調和よりも本能でぶつかりあえ、

っていうことなのかも。





不寛容社会がどうとかこうとかっていうのは、

なんか気持ち悪い番組そうだなと思って見なかったんだけど、

やっぱり本音でぶつかりあわないと、

ほんとうの相互理解なんて生まれないと思う。


誰かがルールを決めるってことを否定はしないけど、

なにが寛容でなにが不寛容かは誰が決めるのか。


PCやスマートフォンで誰もが自由に意見を言える時代。

なにかひとつ物事が起きたら、

いろんな反応、意見がでてくるのは当然のこと。

それにたいして、ネガティブな意見を全部排除するのが、

「寛容な社会」なのかな。

facebookにいいね!しかなくてどうこうっていうのと変わらないし。


で、その中から自分たちにとって都合のいい意見だけを、

抜き出してクローズアップしているマスメディアには問題はないのかな。

カップヌードルのCMにしても、

きのうの、浦和のサポーターにしても、

ほんの一握りの人の意見や愚かな言葉を、

大げさに取り上げてさわぎにしてるのは誰なのか?


インターネットやSNSだけに責任を押し付けるのはちょっと違う気がする。


むかし、ニュータウンの闇みたいなことが言われてたりしたし、

アメリカでもサバービアって言われたりもするし、

寛容さ、正しさ、っていうきれいなもので包み隠したところで、

世の中の不平不満がなくなるわけではないし、

価値観の対立がなくなるわけでもない。


差別が禁止されててすべての人が平等な権利を受けてるはずの、

アメリカやヨーロッパで極右が台頭してきたり、

トランプ氏のような人が支持を得ているのは、

そういう「政治的な正しさ」を追求しすぎているせいで、

正当な批判もできなくなって言いたいことが言えなくなってることと、

関係ないとは言えないと思う。


NHKのようなところが、

「不寛容社会」とか銘打って大げさにさわぐことこそが、

よけいに日本を不寛容にしていくような気がする。
コメント
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