◆世界のベストセラー聖書を読む◆
表題”~生きてもらいたい”などとだんだん偉そうになってきたな、おい!
◆”読む”と言って内容に全然踏み込んでいないのは、書いていないだけで普段の僕は読んでいるわけで、そしてその共同体の一員としての役目も務めているわけでありますが(むしろ、信者さんとなってからは後者の方が大切になるわけですが)それにしてもネットをご覧になるとただその群れがすべていいのかどうか・・・ですよね。僕もよく勉強されているなと感心するものもある。福音主義をきちんと守っているところはいいのですが、宗派はいろいろありそれぞれ独自のカラーがあるようだし、問題も起きているようなところもあるようだな・・・そんで、ここのところにメッセージでいきなりイエスの言葉の「自分を捨て我に従え」などという言葉が入ってくると面食らうね。”従順”とか”良心”ということに特にこの国の人民は弱いからね。特に宗教がらみのそんな言葉には近づかない方が無難ということになるよな。
◆宗教がらみでなくても、不思議に思うのはマスコミもそうだけど、この国の人々は”寄らば大樹の影”、”勝てば官軍”まあ優勢な方になびいて、私もいい方の(優勢な方の)一人だもんね・・と無責任になっていく傾向があるのね。んで、弱くなった方の反論できないようなことをいいことにあれこれ、三面記事のように言い始めるのだ。でも、ブログを書いている人は、曲がりなりにも自分の言葉でしっかり書いていると思うし、自分の生きる”核”を持っている思うのだ。”~まったり~♪ 記事”でも、僕はその人がこの世に生まれて、とにもかくにもその人の人生の今を生きていると考えると、不思議な感動みたいなものが湧いてくるのだ。まあ、これには第一に心の余裕がないといけないけどね・・・。
◆マスメディアはそこんところを売りに特に芸能界記事でなんやかやとやるわけ、それは少なくとも読む側、見る側は金出しているし優位に立っているという心理的なものがあるからだな。ということで、”自分の言葉で読む”というところに戻ってくることになるのです。今回はどうも理屈っぽいのは、僕が思っている聖書を読むということは、第94回目あたりに書いたけど、文字だけはわからないことでもそれを書いた人の状況、時代背景、当時の考え方などを知るともっと真実に書いていること、聖書であれば伝えたかったことが深く理解されてくるのだということを言いたいのだ。2016年の僕らが、都合のいいところを感動的に、たっぷり情緒的に言われたとして、確かにイエスは十分それに該当する方ではあろうけれど、それ以外の満たされていない部分がどうしても真空になっているものが残っているように思われて仕方がないのよ。おまけにというか、その道の方はその真空の部分の話は、難しい神学論など話し始めないといけないので聞く人がチンプンカンプンにならないように話さないのね。
◆イエスはこういう方である、アーメン確かに、で実際、私はこの現実でどう生きればいいのさ、頭空っぽにして従えば、飯が食えるの?、信じて手をこまねいて空見上げていても何も変わらんし飴玉一つも降ってこないということなのだ。で、すっ飛ばして「ただ信じなさい」これはないんじゃないの? おまけに2016年のアメリカのwasp優位<ホワイト(白人)、アングロサクソン(大陸からの宗教改革者人種)、プロテスタント> とういう国は事実なにやっているか解らんじゃないのということでしょ。清教徒がアメリカがインデアンを蹴とばして第二次世界大戦のあとの1960年代以降のドル優位あたりまでだったんではないのということになるわな。・・・この◆記事には問題ありのクレームきそうなので、いつか別に書きたい。
◆んで、その道の方たちは ルター、カルヴァンは必須、おっと重要な古代の教父アウグスティヌスを決して忘れてはいけない。あたりからいきなり、現代に近い神学者からいろいろ学ぼうとしてもそれから何かを得られているのだろうけれどても、僕らにとっては不完全な小難しい人間の言葉にしか聞こえんわな・・・となる。そんな時にいろいろ雑学ごときも繁盛してくるのだな。今回は何を言いたいのか・・・それは、聖書を読みつつ、また僕らは彼らが歴史の中でいかにこの地上の現実と自分の言葉で戦ってきたかということを学ばないといけないのだよということを言いたいのである。実はそれが僕らもイエスの言葉を自分のものにするために知りたかったことなのだということが学んでいくとだんだんわかるのです。 ・・・
表題”~生きてもらいたい”などとだんだん偉そうになってきたな、おい!
◆”読む”と言って内容に全然踏み込んでいないのは、書いていないだけで普段の僕は読んでいるわけで、そしてその共同体の一員としての役目も務めているわけでありますが(むしろ、信者さんとなってからは後者の方が大切になるわけですが)それにしてもネットをご覧になるとただその群れがすべていいのかどうか・・・ですよね。僕もよく勉強されているなと感心するものもある。福音主義をきちんと守っているところはいいのですが、宗派はいろいろありそれぞれ独自のカラーがあるようだし、問題も起きているようなところもあるようだな・・・そんで、ここのところにメッセージでいきなりイエスの言葉の「自分を捨て我に従え」などという言葉が入ってくると面食らうね。”従順”とか”良心”ということに特にこの国の人民は弱いからね。特に宗教がらみのそんな言葉には近づかない方が無難ということになるよな。
◆宗教がらみでなくても、不思議に思うのはマスコミもそうだけど、この国の人々は”寄らば大樹の影”、”勝てば官軍”まあ優勢な方になびいて、私もいい方の(優勢な方の)一人だもんね・・と無責任になっていく傾向があるのね。んで、弱くなった方の反論できないようなことをいいことにあれこれ、三面記事のように言い始めるのだ。でも、ブログを書いている人は、曲がりなりにも自分の言葉でしっかり書いていると思うし、自分の生きる”核”を持っている思うのだ。”~まったり~♪ 記事”でも、僕はその人がこの世に生まれて、とにもかくにもその人の人生の今を生きていると考えると、不思議な感動みたいなものが湧いてくるのだ。まあ、これには第一に心の余裕がないといけないけどね・・・。
◆マスメディアはそこんところを売りに特に芸能界記事でなんやかやとやるわけ、それは少なくとも読む側、見る側は金出しているし優位に立っているという心理的なものがあるからだな。ということで、”自分の言葉で読む”というところに戻ってくることになるのです。今回はどうも理屈っぽいのは、僕が思っている聖書を読むということは、第94回目あたりに書いたけど、文字だけはわからないことでもそれを書いた人の状況、時代背景、当時の考え方などを知るともっと真実に書いていること、聖書であれば伝えたかったことが深く理解されてくるのだということを言いたいのだ。2016年の僕らが、都合のいいところを感動的に、たっぷり情緒的に言われたとして、確かにイエスは十分それに該当する方ではあろうけれど、それ以外の満たされていない部分がどうしても真空になっているものが残っているように思われて仕方がないのよ。おまけにというか、その道の方はその真空の部分の話は、難しい神学論など話し始めないといけないので聞く人がチンプンカンプンにならないように話さないのね。
◆イエスはこういう方である、アーメン確かに、で実際、私はこの現実でどう生きればいいのさ、頭空っぽにして従えば、飯が食えるの?、信じて手をこまねいて空見上げていても何も変わらんし飴玉一つも降ってこないということなのだ。で、すっ飛ばして「ただ信じなさい」これはないんじゃないの? おまけに2016年のアメリカのwasp優位<ホワイト(白人)、アングロサクソン(大陸からの宗教改革者人種)、プロテスタント> とういう国は事実なにやっているか解らんじゃないのということでしょ。清教徒がアメリカがインデアンを蹴とばして第二次世界大戦のあとの1960年代以降のドル優位あたりまでだったんではないのということになるわな。・・・この◆記事には問題ありのクレームきそうなので、いつか別に書きたい。
◆んで、その道の方たちは ルター、カルヴァンは必須、おっと重要な古代の教父アウグスティヌスを決して忘れてはいけない。あたりからいきなり、現代に近い神学者からいろいろ学ぼうとしてもそれから何かを得られているのだろうけれどても、僕らにとっては不完全な小難しい人間の言葉にしか聞こえんわな・・・となる。そんな時にいろいろ雑学ごときも繁盛してくるのだな。今回は何を言いたいのか・・・それは、聖書を読みつつ、また僕らは彼らが歴史の中でいかにこの地上の現実と自分の言葉で戦ってきたかということを学ばないといけないのだよということを言いたいのである。実はそれが僕らもイエスの言葉を自分のものにするために知りたかったことなのだということが学んでいくとだんだんわかるのです。 ・・・
