marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第4章1節-30節 サマリアの女との対話Ⅱ)

2016-10-07 20:11:14 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆サマリアの女との対話 つづき(第4章1節~30節)八木誠一訳(1970年)
15:そこで女が言った。
 「主よ、どうかその水を私にくださいまし。そうすればもうのどは渇かないし、ここに水をくみに来ないで済みますから」。
16:イエスは言った。 
 「行ってあなたの御主人を呼び、ここにおいでなさい」。
17:女は答えた。
 「私には夫はありません」。
 するとイエスは言った。
18:「夫はないとはよく言った。あなたには5人の男がいた。そして今の人はあなたの夫ではない。あなたの言うことはもっともだ」。
 世を審き、真理を与えて人を生かすキリストは、人の隠れた罪を適確にとらえ、明るみに出すのである。しかしそれだけでなく、女は男 によって生きるものではないという事実、だから女が男によって生きようとすれば、絶望するか、あるいは男から男へ渡り歩くことにな るのを、示すのである。
19:女は言う。
 「主よ、あなたは人の心を見透す預言者でいらっしゃることがわかりました。それでお尋ねしたいことがあります」。
 こういう女が以下のようなことを問うのは、自己の生命の支点を尋ね求める人間は、その努力の中に、究極の真理への問を無自覚ないし 倒錯した形においてにもせよ秘めていることが、キリストの前であらわれることを示す。女は続ける。
20:「私たちサマリア人の祖先はこのゲリジム山で神を礼拝しました。それなのにあなた方ユダヤ人は、神を拝するならエルサレムでなけれ ばならないと言いますが、どんなものでしょうか」。
21:イエスは女に言う。
 「わたしのことを信じなさい。この山でもエルサレムでもなく、特定の聖所に限られずに神を拝する時が来る。真理を知らないあなた方 は何を拝んでいるいるのか知らないままで礼拝を捧げているが、私達は知っているものを拝している。
23: 真の礼拝者が神との真実の関係において、すなわち真理そのものに基づき、それを成就する霊に導かれて、神を拝する時が来るし、も う来ているのだ。そして父なる神もそのような礼拝を要求していらっしゃる。神は霊において人間に働きかける。だから、神を拝する者 は、真理と霊において神を拝さなくてはならない」。
25:女はイエスに言う。
 「おっしゃることはよく解りませんが、世の終わりの時に膏注がれた救世主(キリスト)が到来すると申します。そのときにキリストさ まは私達に何でも解き明かしてくださるでしょう」。
26:それでイエスは彼女に告げる。
 「あなたと話しているこの私こそそれなのだ」。
27:このときイエスの弟子たちが帰ってきて、イエスが女と言葉を交わしているのを見て驚いた。しかも誰も、イエスが女に何の用がある 
 か、また何を話しているのか、尋ねなかった。さて女といえば、水がめを放り出して急いで町に帰り、人々に告げた。
29:「来てごらんなさい。私のしたことを何でも言い当てた人がいます。もしかするとキリストさまではないかしら」。
30:それで人々は町から出てイエスのもとに集まった。  
  (<サマリアの女との対話>の章 おわり)・・・  

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第4章1節-30節 サマリアの女との対話Ⅰ)

2016-10-07 00:48:21 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆サマリアの女との対話(第4章1節~30節)八木誠一訳(1970年)
4-1: さてパリサイ人は、イエスがヨハネよりも沢山の弟子を作り、洗礼を授けていると聞いて動揺した。イエスはそれを知って、パリサイ人との紛争を避けるために、ユダヤを去り、再びガリラヤに赴いたが、サマリアを通るのが近道である。こうしてイエスはスカルというサマリアの町に着いた。これはヤコブがその子ヨセフに与えた地(創世記48:22)の近くで、有名なヤコブの井戸があった。
7:イエスは歩き疲れて泉の傍らに立った。時は正午すぎであった。そこへサマリアの女が水を汲みに来た。
8:イエスは女に「水をくれないか」と声をかけた。弟子達は食物を買いに町へ行っていたからである。
9:女は驚いて、「あなたはユダヤ人で男なのに、どうしてサマリアの女に『水をくれ』などとおっしゃるのです」と言った。当時男と女は 気軽に言葉を交わさなかったし、しかもユダヤ人はサマリア人を異端として蔑んでつきあわなかったのである。
10:イエスは女に答えて言った。
 「もしあなたが神の賜物の何たるかをわきまえ、またあなたに『水をくれないか』と言った人が誰であるかを知っていたら、あなたの方がその人に水を求め、その人はあなたに生命の湧き水を与えただろうに」。

 問題は個人の存在、つまり生命の問題なのである。人は誰しも生きることを求める。しかしこの世のものに縋って、生命を自分で確保しようとする人間の配慮が、実は人をより深く死の中に連れ込んでゆく。キリストが真理自体として与える賜物は、生まれながらの人の生の配慮をひとたび否定し、旧い人が死んで真理に新しく生かされる仕方で、真理自身を与えるのであり、それが「生命の湧き水」と言われるのである。

11:しかし、女にはそれが解らず、それをただの湧き水のことだと思ってしまう。それで女はイエスに言う。
12:「主よ、あなたは釣瓶もお持ちでないし、井戸も深いのに、どうして湧き水をお持ちなのです。あなたは私達のご先祖ヤコブ様より偉いわけではないでしょう。この井戸をくださったのはヤコブ様で、ヤコブ様もその子供たちも家畜もみなこの井戸の水を飲んだのです」。
13:イエスは答えて言う。
 「この水を飲んでもまたのどが渇く。この世のもので自分の生命を確保しようとしても虚しい。しかし私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがない。私が与える水は、飲む人の中で泉となり、生命の水が永遠に湧きあがるのだ」。・・・つづく