◆世界のベストセラー聖書を読む◆
これから小難しい神学的なことを少しづつ・・・僕らの命の存在に関すること
◆豊洲市場問題は、この日本の国の考えにまだあいまいなが集団意識が残っているという悪い例をあらわにしていますね。こんなことがまだ起こるんだなぁ。見てくれ利益優先で、人命後回しという意味で”豊洲市場問題”という言葉はメディアの歴史に残るかも・・・だな。第二次世界大戦の日本の敗戦も軍部のこういうあいまいさだったと思う。そんなことを考えた。場の空気という奴なのだ。そういえば戦争中のことを書くのに「場の空気」という言葉を使っていた評論家がいたことを思い出す。東京都知事がこれに対する解決に三つの横文字を言われた。その一つひとつは忘れたが、知り合いから「どうしてわかるように日本語で言わないのかな。彼女はカイロ大学だったなぁ、そう言えば」と語りかけられたので、「きっとこの国のお偉いさんは外からの言葉でなければ、理性に響かせ頭で考えようとしないのでしょう。わからなくてもその意味を知れば横文字にされたがために海外の言葉であるから外部の諸外国にも周知されたと知って身を制するからではないでしょうか」と僕は返答した。
◆アカウンタビリティー(説明責任)は、僕がこの日記の95回目に書いたことである。その言葉は、聖書から来た言葉である。日本の国だからそう自責の念に駆られなくてもと思うが、確かにこのへんは日本民族は特に大衆は善悪の意識は敏感である。みんなで渡れば怖くないというのは、周りが海に囲まれているから多少、まあまあの気持ちがあるが、それが何が悪いと開きなおるのも内輪の話で、こと海外からの特に英語での取り決めやらの外圧が来るとすぐにへいへいとおもねってしまうような気がするのは、僕だけだろうか。それは自国内であればみんながそうだから気が付かないこともあろうし、方やひとたび善悪の基準なる出来事が起こると、我先にと悪の非難をし始めるのである。それにしても、普遍性をもって自分というものを語れないのはとても残念に思うのだ。
◆それは、聖書を土台にして、それ(神が創造した人間を含む世界)と格闘した歴史がないからなのだな。”普遍性をもって”と書いたけど、普遍的なるものの自分ということに対してもそもそも基準がない。はっきり言えば、この日記は、「聖書を読む」であるから、了知しておられる方向けに書くけれど、それは基準となる「まことの人」なる基本が無いからであるといえるのだな。それに、過去の歴史的から見る今の自分と現在の自分の意味を考えるということ。これができない。では、日本というこの国の人々は、そのような人間存在の普遍性を著すことをなしていないかというと決してそんなことはない。しかし、それが一般に流布し普遍的な考えにまで立ち昇らない、残らないのは、何といってもその人の存在に対する一般大衆の先理解、つまりキリスト教のようなベース(基本が)ないからなのである。
◆日本の著作、哲学でもなんでもいいのだけれど、それらの人々の著したもので将来にも向けた普遍性があると思われる著作は、必ずと言っていいほどキリスト教ベースの文化に何らか触れているのだ。あからさまに表現されていなくてもね。それはつまり、いきつくところ、何らかの点で福音記者ヨハネがそれに述べているところの神の言(ロゴス)に触れていないことには、この地上に生きている(キリスト教的には神に創造された)人間にとっては魂の安らぐところはないということなのだと僕は思う。
◆さて、イエスの慰めの言葉、励ましの言葉、そして、その群れの交わりの大切さなどは、今の僕らにとっても大切なことがらではある。しかし、それらが了解されても自分の年齢とともに老化していく自分、それは心身ともにという内容で、そのことに対しての自らの事実につまり、先に述べた”過去の自分の歴史的から見る今の自分とその現在の自分の意味を考えるということ”これができるかというととてつもなく難しいことのようなのである。でも実は、福音記者ヨハネに言わせると「天地創造の父なる神は、地上のすべての人を天井の永遠の世界に導かんとしてその条件として派遣されたイエスを信ぜよ」それだけである。それだけではあるが、この意味はとてつもなく深く、広いのだ。
◆僕にとっては、何よりも自分を知ら占められる言葉を獲得したこと。そのことによってさらに創造された人というものを知ろうと思わされたこと。底辺に流れるその道はそれはおそらく、永遠に生きる道につながっているであろうと考えることができる言葉を獲得したことであった。・・・Ω
これから小難しい神学的なことを少しづつ・・・僕らの命の存在に関すること
◆豊洲市場問題は、この日本の国の考えにまだあいまいなが集団意識が残っているという悪い例をあらわにしていますね。こんなことがまだ起こるんだなぁ。見てくれ利益優先で、人命後回しという意味で”豊洲市場問題”という言葉はメディアの歴史に残るかも・・・だな。第二次世界大戦の日本の敗戦も軍部のこういうあいまいさだったと思う。そんなことを考えた。場の空気という奴なのだ。そういえば戦争中のことを書くのに「場の空気」という言葉を使っていた評論家がいたことを思い出す。東京都知事がこれに対する解決に三つの横文字を言われた。その一つひとつは忘れたが、知り合いから「どうしてわかるように日本語で言わないのかな。彼女はカイロ大学だったなぁ、そう言えば」と語りかけられたので、「きっとこの国のお偉いさんは外からの言葉でなければ、理性に響かせ頭で考えようとしないのでしょう。わからなくてもその意味を知れば横文字にされたがために海外の言葉であるから外部の諸外国にも周知されたと知って身を制するからではないでしょうか」と僕は返答した。
◆アカウンタビリティー(説明責任)は、僕がこの日記の95回目に書いたことである。その言葉は、聖書から来た言葉である。日本の国だからそう自責の念に駆られなくてもと思うが、確かにこのへんは日本民族は特に大衆は善悪の意識は敏感である。みんなで渡れば怖くないというのは、周りが海に囲まれているから多少、まあまあの気持ちがあるが、それが何が悪いと開きなおるのも内輪の話で、こと海外からの特に英語での取り決めやらの外圧が来るとすぐにへいへいとおもねってしまうような気がするのは、僕だけだろうか。それは自国内であればみんながそうだから気が付かないこともあろうし、方やひとたび善悪の基準なる出来事が起こると、我先にと悪の非難をし始めるのである。それにしても、普遍性をもって自分というものを語れないのはとても残念に思うのだ。
◆それは、聖書を土台にして、それ(神が創造した人間を含む世界)と格闘した歴史がないからなのだな。”普遍性をもって”と書いたけど、普遍的なるものの自分ということに対してもそもそも基準がない。はっきり言えば、この日記は、「聖書を読む」であるから、了知しておられる方向けに書くけれど、それは基準となる「まことの人」なる基本が無いからであるといえるのだな。それに、過去の歴史的から見る今の自分と現在の自分の意味を考えるということ。これができない。では、日本というこの国の人々は、そのような人間存在の普遍性を著すことをなしていないかというと決してそんなことはない。しかし、それが一般に流布し普遍的な考えにまで立ち昇らない、残らないのは、何といってもその人の存在に対する一般大衆の先理解、つまりキリスト教のようなベース(基本が)ないからなのである。
◆日本の著作、哲学でもなんでもいいのだけれど、それらの人々の著したもので将来にも向けた普遍性があると思われる著作は、必ずと言っていいほどキリスト教ベースの文化に何らか触れているのだ。あからさまに表現されていなくてもね。それはつまり、いきつくところ、何らかの点で福音記者ヨハネがそれに述べているところの神の言(ロゴス)に触れていないことには、この地上に生きている(キリスト教的には神に創造された)人間にとっては魂の安らぐところはないということなのだと僕は思う。
◆さて、イエスの慰めの言葉、励ましの言葉、そして、その群れの交わりの大切さなどは、今の僕らにとっても大切なことがらではある。しかし、それらが了解されても自分の年齢とともに老化していく自分、それは心身ともにという内容で、そのことに対しての自らの事実につまり、先に述べた”過去の自分の歴史的から見る今の自分とその現在の自分の意味を考えるということ”これができるかというととてつもなく難しいことのようなのである。でも実は、福音記者ヨハネに言わせると「天地創造の父なる神は、地上のすべての人を天井の永遠の世界に導かんとしてその条件として派遣されたイエスを信ぜよ」それだけである。それだけではあるが、この意味はとてつもなく深く、広いのだ。
◆僕にとっては、何よりも自分を知ら占められる言葉を獲得したこと。そのことによってさらに創造された人というものを知ろうと思わされたこと。底辺に流れるその道はそれはおそらく、永遠に生きる道につながっているであろうと考えることができる言葉を獲得したことであった。・・・Ω