marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第4章43節-54節 役人の息子の癒し)

2016-10-14 07:49:36 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆役人の息子の癒し(第4章43節~54節)八木誠一訳(1970年)
43-44:二日後イエスはその地をたってガリラヤに行った。イエス自身が、預言者は自分の故郷では認められない、と証言していた。実際、イエスがガリラヤに入ったとき、ガリラヤ人はイエスが祭りのおりエルサレムで行った奇蹟をみな見ていたので、イエスを歓迎した。ガリラヤ人も過越の祭りの時、エルサレムにいたのである。ガリラヤ人がイエスを歓迎したのはこのように奇蹟信仰のゆえである。これはまだ真の信仰ではない。
46:それでイエスはガリラヤのカナへ行った。これはイエスが水を酒に変えたところである。
さて、ガリラヤの分封守であるヘロデ・アンテパスの役人がいて、その息子がガリラヤ湖畔のカペナウムで重い病気にかかっていた。役人は、イエスがユダヤからガリラヤに来たと聞き、彼のもとに来て、「どうかカペナウムにまで下って来て、私の息子を癒してください」と願った。彼の子は死にそうだったからである。
48:そこでイエスは彼に言った。
 「君達は奇蹟や不思議を見なければ決して信じないのだ」。
49:すると役人はイエスに言った。
 「主よ、そういうわけではありません。どうか私の子が死なないうちにいらしてください」。
50:イエスは彼に言った。
 「見ないでも信ずると言うのか。それではひとりで帰りなさい。君の子はなおる」。その人はイエスの言葉を信じて帰った。
51:彼が山を下っているときに僕達が彼を迎えに来たのに出会った。僕達は言った。「御子息は治りました」。
52-53:それで快方に向かった時刻を尋ねてみると、前日の午後一時ころ熱がとれたということであった。それは、ちょうどイエスが役人に「君の子は治る」と言った時刻であった。こうして役人も彼の一家もみな信じた。
54:これはイエスが行った第二の徴であって、イエスはこれをユダヤからガリラヤへ来ておこなったのである。

 (<役人の息子の癒し>の章 おわり>・・・ 

世界のベストセラーを読む(154回目)神学的なことに入りつつ・・・

2016-10-14 00:00:27 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
今回もpure(純粋に)に求め続けようとする初心者の方は読まないでください。
インターネットで、今はキリスト教会のメッセージを聞いたり、内容はともかくも文字で読もうと思えば配信されている教会のメッセージも読むことができる。お金があれば、関連書物も特にキリスト教の専門書は高価なのだが腐るほどあるのだから買って勉強することもできるのだが、真にイエスのことを一般の人々に伝え、その人が自分の言葉で読めるようになり、自分の言葉でイエスと語られるようになることを目指そうとされるのであれば、知識を蓄え、その言葉の関連付けで悦に入る快楽よりも(そのような知識にはどうも胡散臭いのもあるから)よほど真実はなんなのか、聖書の時代状況はどのようであり、語る者(記者)の背景やその者の状況を知ること、つまりは自分自身という人間はどうかと類推して、話すと言うことは聞く相手もいる訳であり、聞く者が理解できるから解るように語られるのだという常識に立って考えることは重要なことと思われる。第一に我々はその時代にはいなかったのだから。そして2016年の時代に、時代背景、自分の個人的な背景をも無意識の上に影響されつつあるのであるという、そういう人間という生き物であることを十分理解しながら、今から2000年以上も前の話を読み、聞くのであるということを当然のこととして踏まえおかなくてはならないのではないかと僕は思う。
◆僕は何を言いたいのか。ここからびっくりのことを書くが「聖書は誤りなき神の言葉である」ということを胸を張って言わない方がいいと思うのだ。(むろん、間違っているということも胸を張って言わない)。こうことからスタートして、曲がりなりにも言葉で頑張って話すから、聞いていて本当にそうなの?と疑問を持っても尊い働きであるからということで遠慮してしまうというものだ。しかし、これだけ世俗化してしまったのでは、隠すところは無くなってきたな。むろん、神学校出ただけで、さらに深い勉強しなければ知らない人は知らないのでそれはそれでいいのであるが、どうもその胡散臭さは、時代におかれた人間は、どういう者か、どういう考えをするものか、風習、因習、伝統などを背景に当たりまえのように影響を受けて動いているのものであるということに無知であることから来ていると思うのだ。聖書を2016年の僕らが読み取る場合、それをすべてそのとおり(つまり2016年の考えでもって)解釈し、理解しようということ自体、無理なところがあるし、どのように解釈したら良いのか更に学んで見たく思うのが誰しもではないかと思う。ところが、そのことも気にかけずに、ある一つのしがらみに守られてするすると古びた知識を関連付けて、それはそれで知的快楽ではあるのだが、なぜか偉く深みがないというか、ああ、そこをお話の落としどころとされるのですか(心情的な面はどうも普遍のようで)・・・と言うのでははっきりって情けない、その道の方・・・。
◇その道の方にお尋ねください。きちんと答えられた方はよく読まれている方です。歴代誌下21章2節に間違いあります。なぜなんですか?と(答え→原文通りに訳されている聖書であれば、原典の記者が間違えて書いているので、そのまま掲載されていますというのが答え。もし、間違えていないと思われたら編集の時に修正したものでしょう日本語の翻訳時に。)その他、マタイ福音書18章11節はどうしてないのですか(これは解説書がありますから答えてくれます)・・・etc。
◆宗教改革から来年は500年、万人祭司とは、一人ひとりが、直接、イエスの言葉を自分の言葉で立ち、上を見上げて戦って残りの人生を全うすることを望むことです。それは、知識と自分の言葉を与えられたのは何にもまして感謝にたえないことなのではありますが、それから更にまだ先があって、再び、ひとりひとりの内面の霊的な準備が”常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ”と整えられ、世俗的な言葉を使わせてもらうなら魂が”潔め”に向かい、しかも人類の考えの基が”イエスの言”をアンカーに持ちつつ、”天になるごとく地にもなさせたまえ”と進化して行くべくそれに関与しつつ、人手によらない神の基のシステム化、世界化が図られていかねばならにように思われるのです。・・・