marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(150回目)自己内の偶像化の回避Ⅲ

2016-10-08 22:04:23 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ・・・149回目からのつづき
”自己内の偶像化の回避”などという小難しい表題を付けたもんだから、内容がやわに書きずらくなってしまったな。けれども、神学的にも実は、僕らが今、イエスが再びお迎えにくるとしてですね、「おいでになったよ」といきなり言われたらどうするね・・・と思う訳。
◆そうそう、イエスのたとえ話にね、5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女の話がありまして、賢い乙女は夜中に花婿が来てもいいように明りを灯す油を絶えず準備をしていたのだけれど、愚かな乙女は、そうしていなかったものだから花婿がいざ来た時に迎え入れることができなかったという話なのね。花婿は再来するイエスのことね。イエスは「再びみんなを迎えにくるからね」と約束されて天にかえっていかれたの(再臨というやつ)。だから、いつ来てもいいように、忘れずにいるんだよとイエスがお話ししたんだ。僕はこの話を読むと”油断”という漢字を思ってしまうのよ。読んで字の通りでしょ。そして、このたとえをしっかりマタイさんは福音書に書いたのよね(ほかの福音書にはこの話はない)いかにもマタイさんらしいと思ってしまうね、職業柄・・・。(このたとえはマタイ福音書の25章第1節~13節)このたとえの落としどころは”目をさましていなさい”、寝るなということでなくて、意識として、肉体的な享楽的な退廃に引きづられて意識を朦朧とさせていてはいけないよ、それでなくても人は老化で脳みそは壊れていくのだからね、脳みそは神からの霊の受信機みたいなもんだからね・・・というような屁理屈をもって僕は自己理解しているのです。油断していたのは偶像化があったのであろうと(神第一としていなかったとう思考の代償を担っていた偶像があったのであろうということになるのね。)
◆さて、話をもとに戻すと、再臨といってもまったく無関心な人はいるし、かといって無理くりあれやこれやと不完全な朽ちていく肉の人が、理屈めいて語っても限界があるし、それでなくても長い歴史の中で、ほとんどのキリスト教といえば教会、そしてその十字軍や植民地に貼り付いていあった歴史、しかも欧米の・・・と思ってしまうでしょう。だから、話しても、書いて読んでもらうとしても人為的にはそこまでなのだね、あとは示される人は示されるのだからと・・・。長々と書いてきて、これが何で偶像化の回避なのか。結論からいうと”すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉をひとりひとりのものに”というキャッチフレーズの”すべてのしがらみ”に該当するのが偶像化なのです。これは、西欧哲学の”はしり”にも入っていって、とくにこの国(日本)の人には、そんなことはただ、えらくひねくれたこじつけのように議論していると思われるかもしれないけれど、それはそのうちに・・・。さて、屁理屈めいたことも含めて続けます。
◆で、聖書を読み始めて(M.ルターさん推奨のヨハネから始めてきたけれど)福音書そのむずかしさとは、とにかく読む人には否応なく、ユダヤ人たちの(僕らは異邦人で僕らに向けて優先的に書かれたものではないからね、まず第一には)”先理解”が必要であったということでした。ユダヤ人は小さなころから言葉と文字で頭が鍛えられたきたからね。おまけに、ご先祖はその歴史の上でも辛酸をなめつつ肉体的にもその存在が刻まさせられたのだったでしょう。だから、異邦人に”しばりから解放された神の言葉”を先理解のない異邦人に述べ伝えるその真髄はといえば、イエスの言葉もしかりだが、同時に神の業が目で見て、手で触れることとして第一に否定できないその事実、目しいは目が開かれ、足なえは立ち上がり、死人は生き返ったというその事実を述べ伝えねばいけない、これぞ神の業であると。これなら、先理解どうのこうのは吹っ飛んでしまうだろうということで、それは全世界の創造者から遣わされた者の業であるという事実だと。そして、より時間経過の中で(それには実に退廃、後退的な”しがらみ”=異教的なグノーシス的な当時のそれ<偶像化>にも対抗すべく)そのことは、先理解のない人々にも再臨の時まであらゆる人に適応するであろう抽象的な、観念的な普遍性のある言葉に訴えなければならないという必然的な内的要求が沸き起こってヨハネは福音書を書いたものなのであるということだ。
◆さて、では”回避”とは・・・それが、聖書の底辺を流れるエクソダス(脱出)なのである。どこへの? 永遠の命へのである。・・・つづく