◆世界のベストセラー聖書を読む◆
小難しい表題がいつまでの続きますので、そろそろ消したいと思います。内容は聖書の十戒の第一戒にさかのぼります。新共同訳より。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト記第20節3-4節)
◆偶像化の回避とは、この第一の戒めに関わる以降すべてであり、聖書のカイン(農耕定着者)とアベル(牧畜移動者)による生活の後者の採用からアブラハムの脱出、アブラハムの息子イサクを捧げよという指示、モーセの出発(脱出)、異教の民の撲滅、異邦人との識別、福音のためのすべての喜捨(親、兄弟、知人、友人、妻さえも)、当初の異邦人の地に行くなの戒め、そして自分(自分を憎むものは命を得るなど)、すべては現状あるものからの離脱、脱出であるという言葉のすべてに及んでいるように思われます。
しかし、我らはこの地上に残され、歴史を歩まねばなりませんからそこで生きるため、天になるごとく地上にもその業を被創造物としての役割として実現すべく、託された言葉でもってこの世の改革として血と肉なる不完全ながらも自己理解、神の声の委託からその実現による社会の形成、世界のありかた、目標への合理性、普遍性などを試行錯誤しその世界を実現すべく、人間の言語思考を屈指する活動をなしてきたと考えられるわけです。つまり、すべてにおいて行き着くところ個人のしがら身から解放されて行く準備を常に「わたし(神)」を第一とすることにより要求をなしてき、行き着くところ、血と肉は朽ちる、霊は人を生かすのであるという本来のpureな自分の霊が永遠の命の世界に帰還していくことを目指すものなのであると考えられる訳です。
◆思うに我々の現に今あるこの肉体は2016年のこのとき自分が選んだものではない。しかし、この肉体を通してしか、わたしはわたしでしかあり得ない。さてこの不完全、欠陥の多さ、弱さ、疲れのある、また、周囲への配慮、労働の維持、食べること、排泄、眠ることすべてにおいて時間は経過し、肉なるものはある時を山場にして死に向かう。イエスの言葉、「生きてわたしを信ずる者は永遠に死ぬことがない」とすれば、復活の時、今のこの肉体のままというより、誰でもがよりよき望みたる自らに再会したいと思うのではないだろうか。従って、与えられし今という人生は、永遠の世界への入るための訓練の場とはならないか。なぜなら、神が望みたもうから。ひとりひとりのpureな魂の救済に向けて。それが次の戒めにあると思うのです。
あなたがたの神、主なるわたしは聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。(レビ記 第19章2節)
◆そのために、すべての”しがらみ”から脱出することだと(といっても我々は、肉により遺伝的要素、動物的その仕組みにより、自らの生を選択することはできないが、その戒めを守るべくありとあらゆることを排除しpureな自分であらねばならないのではあるまいかというのが”潔くあれ”という戒めになるのではないだろうか)。パウロの目を治してくださるようにとの神への願いが、「我が恵み汝に足れり」との神からの返答とすれば、この与えられた人生から神の子のきたるべく意味を多く学ぶべきではないかとその自分の言葉を模索すべき課題となる訳です。それが僕の言う”自分の言葉で読む”ところの"自分の言葉”です。
自分とは永遠の課題でもあるけれども、最終、”まことの人なるキリスト”との対話がなければ、土台がないので空を打つことになるであろうと思うのです。人という種において、この動物的仕組みによりあり得るこの血と肉、大いなる自らの選択できない不自由さ、困難さ、それからの自分の十字架をおいつつそれに与えられた霊であるからこそ少なくともpureな魂として帰還すべくこの不条理の中で過ごす。
◆「自分の十字架を負って我に従え」とイエスは言う。十字架が重いほど、イエスの十字架の意味が我の十字架にのしかかる。「悩みも苦しみもまた恵みである」とうものすごい逆説となるのです。やっと我はこの与えられしこの不自由な肉体から解放されて永遠の住まいに憩うとおそらくラザロは、そして生まれつき目の見えなかった青年は、さらにイエスの業にいやされた多くの人々はそう思って希望を持って地上の生涯を終えたのだ。僕には、この地上に立てられた自分の十字架が日々の生活の中で見えなければ、すべてにおいて思考すべくアンカー(碇)とならないように思われる。それを思わなければ、思考するすべては洪水に流されて何もなくなってしまうように思われるのだ。一人ひとりの十字架があり、その原点に立ち(帰り)ひとりひとりは歩みを始めなければならないと思う。そうでなければ、浮ついた光まばゆい恵みの感情の洪水に流されてしまうだろう。感情に流されてね。少なくとも地上にいる我々はその光は自己の十字架という影があるから光と認めうるし、ひとりひとりがそうなのだと思いたい。現実は甘くないから。イエスの希望は「わたしにつながっていなさい。自らの足で立ちなさい」であった。そうでなければ、悪魔はいつもキリスト者の足をすくいに来るであろう。
◆こういう、すでに旧約時代のはじめから見られる一種の目標化、その合理化、またそのための神の似姿に創造された人間の神からの言葉の獲得によって世界は、神を迎えるべく光に向かって世界化してきたと考えられるのです。・・・ Ω
小難しい表題がいつまでの続きますので、そろそろ消したいと思います。内容は聖書の十戒の第一戒にさかのぼります。新共同訳より。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト記第20節3-4節)
◆偶像化の回避とは、この第一の戒めに関わる以降すべてであり、聖書のカイン(農耕定着者)とアベル(牧畜移動者)による生活の後者の採用からアブラハムの脱出、アブラハムの息子イサクを捧げよという指示、モーセの出発(脱出)、異教の民の撲滅、異邦人との識別、福音のためのすべての喜捨(親、兄弟、知人、友人、妻さえも)、当初の異邦人の地に行くなの戒め、そして自分(自分を憎むものは命を得るなど)、すべては現状あるものからの離脱、脱出であるという言葉のすべてに及んでいるように思われます。
しかし、我らはこの地上に残され、歴史を歩まねばなりませんからそこで生きるため、天になるごとく地上にもその業を被創造物としての役割として実現すべく、託された言葉でもってこの世の改革として血と肉なる不完全ながらも自己理解、神の声の委託からその実現による社会の形成、世界のありかた、目標への合理性、普遍性などを試行錯誤しその世界を実現すべく、人間の言語思考を屈指する活動をなしてきたと考えられるわけです。つまり、すべてにおいて行き着くところ個人のしがら身から解放されて行く準備を常に「わたし(神)」を第一とすることにより要求をなしてき、行き着くところ、血と肉は朽ちる、霊は人を生かすのであるという本来のpureな自分の霊が永遠の命の世界に帰還していくことを目指すものなのであると考えられる訳です。
◆思うに我々の現に今あるこの肉体は2016年のこのとき自分が選んだものではない。しかし、この肉体を通してしか、わたしはわたしでしかあり得ない。さてこの不完全、欠陥の多さ、弱さ、疲れのある、また、周囲への配慮、労働の維持、食べること、排泄、眠ることすべてにおいて時間は経過し、肉なるものはある時を山場にして死に向かう。イエスの言葉、「生きてわたしを信ずる者は永遠に死ぬことがない」とすれば、復活の時、今のこの肉体のままというより、誰でもがよりよき望みたる自らに再会したいと思うのではないだろうか。従って、与えられし今という人生は、永遠の世界への入るための訓練の場とはならないか。なぜなら、神が望みたもうから。ひとりひとりのpureな魂の救済に向けて。それが次の戒めにあると思うのです。
あなたがたの神、主なるわたしは聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。(レビ記 第19章2節)
◆そのために、すべての”しがらみ”から脱出することだと(といっても我々は、肉により遺伝的要素、動物的その仕組みにより、自らの生を選択することはできないが、その戒めを守るべくありとあらゆることを排除しpureな自分であらねばならないのではあるまいかというのが”潔くあれ”という戒めになるのではないだろうか)。パウロの目を治してくださるようにとの神への願いが、「我が恵み汝に足れり」との神からの返答とすれば、この与えられた人生から神の子のきたるべく意味を多く学ぶべきではないかとその自分の言葉を模索すべき課題となる訳です。それが僕の言う”自分の言葉で読む”ところの"自分の言葉”です。
自分とは永遠の課題でもあるけれども、最終、”まことの人なるキリスト”との対話がなければ、土台がないので空を打つことになるであろうと思うのです。人という種において、この動物的仕組みによりあり得るこの血と肉、大いなる自らの選択できない不自由さ、困難さ、それからの自分の十字架をおいつつそれに与えられた霊であるからこそ少なくともpureな魂として帰還すべくこの不条理の中で過ごす。
◆「自分の十字架を負って我に従え」とイエスは言う。十字架が重いほど、イエスの十字架の意味が我の十字架にのしかかる。「悩みも苦しみもまた恵みである」とうものすごい逆説となるのです。やっと我はこの与えられしこの不自由な肉体から解放されて永遠の住まいに憩うとおそらくラザロは、そして生まれつき目の見えなかった青年は、さらにイエスの業にいやされた多くの人々はそう思って希望を持って地上の生涯を終えたのだ。僕には、この地上に立てられた自分の十字架が日々の生活の中で見えなければ、すべてにおいて思考すべくアンカー(碇)とならないように思われる。それを思わなければ、思考するすべては洪水に流されて何もなくなってしまうように思われるのだ。一人ひとりの十字架があり、その原点に立ち(帰り)ひとりひとりは歩みを始めなければならないと思う。そうでなければ、浮ついた光まばゆい恵みの感情の洪水に流されてしまうだろう。感情に流されてね。少なくとも地上にいる我々はその光は自己の十字架という影があるから光と認めうるし、ひとりひとりがそうなのだと思いたい。現実は甘くないから。イエスの希望は「わたしにつながっていなさい。自らの足で立ちなさい」であった。そうでなければ、悪魔はいつもキリスト者の足をすくいに来るであろう。
◆こういう、すでに旧約時代のはじめから見られる一種の目標化、その合理化、またそのための神の似姿に創造された人間の神からの言葉の獲得によって世界は、神を迎えるべく光に向かって世界化してきたと考えられるのです。・・・ Ω