◆20世紀最大と言われた神学者カール・バルトさんに文句をつける◆
先の「福音の力」とゴチックで小題が付けられた2節(第1章16節と17節)は、ローマ人の手紙のパウロさんの中心主題なのです。ですから、なまじ簡単に言葉の羅列でよく考えると分からない(せっかく自分の言葉で読もうとしているのに)観念的な言葉でごまかされそうで!?、これでふむふむなどど知ったかぶりしていると、なんかどこを読んでもそういう観念的な分かったようで実はよく分からん言葉で押し切られそうで、それでは駄目じゃんという気持ちになってしまうんだな。それで、ここの「信仰(ピスティス)に始まり信仰(ピスティス)に至らせる」という17節は、僕などは先の回に書いたとおりなのだよ。
◆パウロさんはその気持ちがあったからこそ、ローマにいる人々に手紙を書こうとしたのです。バルトさんの訳、「真実から信仰へ至らせる」というのは、僕に言わせると「Nein!」だな。ここの節はパウロの前までに書かれた文章から切り離されて読み取るべきではないのです。ギリシャ語でも繰り返し同じ言葉が並べられているから、訳としてはこのままなのだ。しかし、パウロが考えたのは、前の言葉の「信仰」は、エルサレムで、イエスが十字架に掛けられたそれは旧約時代からの神の言葉に預言されたものであった救い主であるとの言い伝え。それは、とおく離れたローマのおそらく離散のデアスポラユダヤ人たちが住む町との行き来をしていた異邦人たちなどからの話を信じたのであって、それはイエスを信じるという信仰ではあるけれども、しっかりした内容(どこまでがしっかりというのかは問題があろうけれども)の理解された内容のものでなかったのです。つまり弱い、僕の言葉で言うなら自分の言葉でしっかり捕らえられていない内容のものだったのです。それを、わたし(つまりここではパウロ)のように復活したイエスに出会い、今まで自分が学んできた律法やパリサイ派の決めごとなどを遵守してきた者が体験し、それこそ深いイエスの十字架の理解をしたもの、つまりは自分の言葉でしっかり捕らえた強く深い信仰(強い信仰)の者(パウロ自身)から話を聞くことができるのであれば、それはローマにいる信仰を持つ人々も、よりいっそう深い信仰となり喜びもさらに増し加わることになるだろうとの確信があったのだ。そのことが前の節にまで著されているのだ。だからこそわたしパウロは、ローマの人々にも早く会いたいし、喜びを共に心から分かち合い励ましあいたいのだと述べているのです。
◆(1:11)「あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。」(1:12)「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし会いたいのです。」
どうです。パウロさんが「信仰に始まり信仰に至らせる」と書いた意味がすっきりしてきたでしょう。パウロのこの手紙を書いた意気込みが聞こえて来るようではありませんか。それはユダヤ人だけではなく、その福音の喜びは信ずる者すべてにとって救いをもたらす神の力であると、もう一度、これはみんなに語りかけるのですと前書きを新たに正して16節を入れているのです。
◆バルトさんも僕らも時代の人、必ずや何らかの制約を受けています。バルトは水平な広がりから解釈はしていません。神は絶対他者なのです。神と人間の断絶面が強く表れています。「真実」とは目の前の事実、十字架で言えば縦の杭です。しかし、パウロは、少なくともこの言葉では、十字架の横棒、つまり時間的経緯(旧約から、デアスポラから広がりへの)水平の考えを持っていたと読み取れます。
◆そうであることが、次回以降の手紙の内容からも読み取れてくるのです。・・・ Ω
先の「福音の力」とゴチックで小題が付けられた2節(第1章16節と17節)は、ローマ人の手紙のパウロさんの中心主題なのです。ですから、なまじ簡単に言葉の羅列でよく考えると分からない(せっかく自分の言葉で読もうとしているのに)観念的な言葉でごまかされそうで!?、これでふむふむなどど知ったかぶりしていると、なんかどこを読んでもそういう観念的な分かったようで実はよく分からん言葉で押し切られそうで、それでは駄目じゃんという気持ちになってしまうんだな。それで、ここの「信仰(ピスティス)に始まり信仰(ピスティス)に至らせる」という17節は、僕などは先の回に書いたとおりなのだよ。
◆パウロさんはその気持ちがあったからこそ、ローマにいる人々に手紙を書こうとしたのです。バルトさんの訳、「真実から信仰へ至らせる」というのは、僕に言わせると「Nein!」だな。ここの節はパウロの前までに書かれた文章から切り離されて読み取るべきではないのです。ギリシャ語でも繰り返し同じ言葉が並べられているから、訳としてはこのままなのだ。しかし、パウロが考えたのは、前の言葉の「信仰」は、エルサレムで、イエスが十字架に掛けられたそれは旧約時代からの神の言葉に預言されたものであった救い主であるとの言い伝え。それは、とおく離れたローマのおそらく離散のデアスポラユダヤ人たちが住む町との行き来をしていた異邦人たちなどからの話を信じたのであって、それはイエスを信じるという信仰ではあるけれども、しっかりした内容(どこまでがしっかりというのかは問題があろうけれども)の理解された内容のものでなかったのです。つまり弱い、僕の言葉で言うなら自分の言葉でしっかり捕らえられていない内容のものだったのです。それを、わたし(つまりここではパウロ)のように復活したイエスに出会い、今まで自分が学んできた律法やパリサイ派の決めごとなどを遵守してきた者が体験し、それこそ深いイエスの十字架の理解をしたもの、つまりは自分の言葉でしっかり捕らえた強く深い信仰(強い信仰)の者(パウロ自身)から話を聞くことができるのであれば、それはローマにいる信仰を持つ人々も、よりいっそう深い信仰となり喜びもさらに増し加わることになるだろうとの確信があったのだ。そのことが前の節にまで著されているのだ。だからこそわたしパウロは、ローマの人々にも早く会いたいし、喜びを共に心から分かち合い励ましあいたいのだと述べているのです。
◆(1:11)「あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。」(1:12)「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし会いたいのです。」
どうです。パウロさんが「信仰に始まり信仰に至らせる」と書いた意味がすっきりしてきたでしょう。パウロのこの手紙を書いた意気込みが聞こえて来るようではありませんか。それはユダヤ人だけではなく、その福音の喜びは信ずる者すべてにとって救いをもたらす神の力であると、もう一度、これはみんなに語りかけるのですと前書きを新たに正して16節を入れているのです。
◆バルトさんも僕らも時代の人、必ずや何らかの制約を受けています。バルトは水平な広がりから解釈はしていません。神は絶対他者なのです。神と人間の断絶面が強く表れています。「真実」とは目の前の事実、十字架で言えば縦の杭です。しかし、パウロは、少なくともこの言葉では、十字架の横棒、つまり時間的経緯(旧約から、デアスポラから広がりへの)水平の考えを持っていたと読み取れます。
◆そうであることが、次回以降の手紙の内容からも読み取れてくるのです。・・・ Ω
