marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(182回目)ローマ人への手紙(第1章16節から17節)

2016-11-21 19:10:55 | 日記
◆福音の力◆ 2節のみですが話のくくりにゴチックで書かれている表題です。
この表題が少し前の口語訳聖書には書かれていないのもある。当然、後で訳者がつけたもの。ギリシャ語原点には当然、ルビのような節の数字や第何章などは書かれていません。で、この2節についての表題の中身は、実はパウロさんの中でも大切なところです。それは、ルターさんもパウロの手紙はローマ人への手紙と言われていますが第一に挙げる「信仰義人」の言葉が書かれているからなのでね。
◆(1:16)「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」(1:17)「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」 口語訳です。ところが、新共同訳では
◇(1:16)「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(1:17)「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しいものは信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」 少し違うね。前の方が原点に近いと思うよ。
◇その前に、書いてあるとおりです ってあるけどどこに? 前のどこかに。それは、先理解必要なところだな。旧約聖書ハバクク書第2章4節「神に従う人は信仰によって生きる。」(新共同訳) これは、ガラテヤ書第3章11節、へブライ人への手紙第10章38節にも同じ言葉があります。パウロの中心思想なのです。だから、こそといいますか、M・ルターさんはこの言葉に啓示をビビッと受けたのです。当然、ルターさんはそれまで求めに求めていたのよ。
◆「信仰」はギリシャ語で「ピスティス」という。バルトさんは次のように解釈したけど、僕などは凡人なのでその通りに読むな。小難しく解釈などしないよ。171回目に掲載した”平凡社ライブラリー”ローマ書講解(上)(小川圭治・岩波哲男訳)カール・バルトさん訳では、次のようになっているのです。「わたしは救いの音信(おとずれ)を恥としないからである。しかしそれは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。というのは、神の義は、その救いの音信の中に啓示され、真実から信仰へ至らせるからである。これは「わたしの真実によって正しい者は生きるであろう」と書いてあるとおりである。
◇曰く、信仰から信仰へ至らせるというのはどういう意味なの? ということなのだ。凡人の僕はそのとおりに読むとは、つまり、より深く信仰が自分のものになることを信仰から信仰へと書いたのだよ。
そのヒントはね、パウロのその前の文章に現れているのさ、僕が疑問に思ったところ。それは、一度も行っていないローマの人の群れに対して8節に、「あなた方の信仰が全世界に言い伝えられている」と書かれている。それなのにパウロは、15節で「わたしの節なる願いは、ローマにいるあなたがたにも福音を述べ伝えることなのです。」とあります。つまり、「信仰から信仰へ」とは、「読み、聞き伝えの漠然とした信仰」(8節)から「福音の信仰」(15節)(これは、より理論的につまりパウロがこれから書く手紙文の内容のようにしっかりした福音の信仰)へという意味なのです。これは、パウロのように自分の言葉で読み、聞き、理解して確信する深い信仰へと進んでいくことなのだね。それが、「信仰から信仰へ」ということなのです。(・・・と僕は思う)・・・ Ω