marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(173回目)脱線Ⅱ 神学者 K・バルトさんのこと

2016-11-11 19:31:59 | 日記
◆僕の記憶にあるカール・バルトさんのことを少し その2◆
そのカール・バルトの手紙というのは、「福音と世界」という雑誌が特集を組んで、バルト70歳の誕生日を記念して原稿を依頼し寄稿されたものでした。そのバルトが書いた日本から来た哲学者が書かれている部分ですが・・・「モーツァルト」バルト著(新教出版社 1966年初版 小塩 節 訳 p105)わずか数ページにこのような記載がありました。
◆「ある著名な、当時はまだ若かった日本の哲学者がボンにいたことは、やはり最も記憶にあざやかな事実です。彼は六週間のうちにドイツ人の学生とドイツ語で行う私のデスカッションに、非常な理解力をもって参加できるようになり、十二週間のうちにギリシャ語の新約聖書が読めるようになり、半年後には聖書講義ができるばかりか、ブルトマンに関する-そして彼に反対する注目すべき論文を書くという能力を示しました。私はまだそんなに迅速かつ精力的に早業を演じた外国人を、他に見たことはありません。それにまた今度は、新教出版社が、日本では「教会教義学」の完訳が敢行されようとしているという、ほとんど信じ難いことを報じて来ました。・・・」
◆僕は、名前の書かれていない日本からカール・バルトの元で学んだ若き哲学者は誰だろうなと思っていたのですけど、神学者八木誠一さんの著作の中でよく出てきていた滝沢克己さん(故人)<九州大学>のことではないかと、当時バルティアンの多かりし時でしたから、当時神学生として学んでいた(現在は牧師)方に問い合わせの手紙を書いたのです。(師事していた京都大学の哲学者西田幾多郎さんに神学界で有名になって話題になっているヨーロッパのKの元で学んできなさいと言われたとか・・・という話だったと思う。)
◆それで、その返事は”おそらく間違いありません”との葉書でした。その葉書は、今も、その本のそのページに挟んである。滝沢克己さんがご存命なら八木先生ともっといろいろ議論を交わされたことに違いないと思われ当時残念に思ったことを記憶しています。僕はイエスの言葉をなんとか解釈し、日本に定着させなければ異邦人の国といえどもおかしいと孤軍奮闘している日本の神学者が好きなのです。日本人であるこの国の人が自分の言葉でイエスをとらえないでどうするか! 実際は沢山の人が格闘しているのだけれど、同じ”神の国”と言っても・・・。
◆ここで、滝沢克己さんを書き出したのはKの元で学んで、それを批判したのは先のエミール・ブルンナーが語り、Kに「Nein!」と言われたその内容に近いことを滝沢さんも考えて主張したからなのだ。人間の心底にのこる神のイメージ、似姿。それを滝沢は「インマヌエルの原点」と語ったかと記憶する。神、我らと共にあり。滝沢は宗教ジャンル以前の人間の心底に誰しも命の存在同様、無意識のうちにもその根があると言ったのです。小難しいがその解説を少しして終わりたい。
◇「滝沢は、『仏教とキリスト教』(法蔵館1964年)でいわゆる「神と人との第一義の接触」と「第二義の接触」を区分する。前者は、神我等と共に存すという、あらゆる人間のもとに - その人がどの宗教に属するか、属しなかを問わず - 直属する原事実であり、第二義とは、この原事実への開眼、従ってこの規定に自覚的となった生の成立のことである。さて、滝沢はこの区別からして、伝統的キリスト教また彼の師バルトを批判する。すなわちバルトを含めてキリスト教は、イエス・キリストという歴史的出来事によってはじめて神と人との第一義の接触が生起したかのように説き、よってキリスト教への信以外に救済の可能性を認めないのだが、実はイエスとは、そこで神と人との第二義接触が典型的に成就した人間であり、第一義の接触そのものは仏教の根本にもあるのであって、したがってそれに基づいて第一義の接触に開眼すること(覚、救い)は仏教の伝統の中にもキリスト教の場合と同様、現実的なのである。」(「パウロ・親鸞・イエス・禅」八木誠一著:S58年7月1日初版:法蔵館)・・・ 少し難しかったかも。