◆パウロさんの語る私(自分)のこと◆
一日、おいておくと自動バックアップも消えてしまっていました。そこで頑張って、パウロさんのローマ人への手紙を読み始めようと書き込んでいましたが、このブログは”自分の言葉で聖書を読む”ということでしたので、イエスの体験をまったく自分の言葉にしてしまったそのパウロさんの手紙についての”パウロという私の言葉”というものについて考えてみました。少しわかりずらいかもしれませんが、”哲学、思想”のジャンルにも登録しましたので少し普段、考えていたことを書いておきたいと思いました。
◆デカルトさんという人の言葉に”我思う、ゆえに我あり”という有名な言葉がありますね。ちなみに、デカルトさんもしっかり神様のことは疑いなく信じていたの。哲学というと人間の言葉でいろいろ思索するので神というものを度外視していたかと言えば、まったくそういうことはなく、この時代の哲学者はベースには神の存在は疑ってはいなかったのだ。もちろんあの科学者ニュートンさんも。さて、僕がここで何を言いたいかと言えば、語られた言葉のその時の自分(私)の位置はどこに立つのか? ということなのだ。
◆どうしてそんなことが必要かって?、デカルトさんはずっと後の人で聖書に無関係なようだけど、私(自分)を考えて科学的に分析して、理性的に考えるには方法が必要であるといった人なのだ。”方法序説”というやつ。んで、パウロの手紙を読むにあたり、この辺をある程度かじっておけば、自分というものを神様相手に見つめた人パウロのことが少しは理解しやすくなるのではないかと思ったからなのです。さて、
◇「私は思う」(本来の自分がいる基点)は、まだ良しとして、次のその考えている自分を見つめて「そうしている自分」を規定していろ自分はどの視点(基点)に立っているのかということなのである。第三者としての自分という目線が入っているわけですね。ここの判断基準はどこにあるのか そうしているのを見つめる神の目線に近づいた自分がいるのではないかということ。生まれたままの人間なら、後者の目線は出てこないであろうと思う。後者の目線は省察者の目線だ・・・。こういう客観的に自己を見つめる目線。パウロさんはそういう目線で、自己の省察を通して、霊と肉ということを語ったのでした。いや、ばりばりのその道(神を信ずる者)のエリートだったから、まずはイエスに出会う前の先理解の自分の言葉の出所の省察は、十分と言えるほど出来ていたということなのである。
◆ガラテヤ人への手紙を読むとかなりの長期間パウロは、表舞台には実は出てこなかったのだ。ガラテヤⅠ(1:17~22)「また、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムに上らず、アラビアに出ていった。それから再びダマスコに帰った。その後、3年たってから~、キリストにある諸教会には顔は知られていなかった。」(2:1)「その後14年たってから~」
いずれ、パウロさんはこの間、自分の言葉でイエスの旧約来の言われてきた救い主の確証を自分の言葉で確認、獲得していったものであろうとの推察がなされてくるのである。・・・
一日、おいておくと自動バックアップも消えてしまっていました。そこで頑張って、パウロさんのローマ人への手紙を読み始めようと書き込んでいましたが、このブログは”自分の言葉で聖書を読む”ということでしたので、イエスの体験をまったく自分の言葉にしてしまったそのパウロさんの手紙についての”パウロという私の言葉”というものについて考えてみました。少しわかりずらいかもしれませんが、”哲学、思想”のジャンルにも登録しましたので少し普段、考えていたことを書いておきたいと思いました。
◆デカルトさんという人の言葉に”我思う、ゆえに我あり”という有名な言葉がありますね。ちなみに、デカルトさんもしっかり神様のことは疑いなく信じていたの。哲学というと人間の言葉でいろいろ思索するので神というものを度外視していたかと言えば、まったくそういうことはなく、この時代の哲学者はベースには神の存在は疑ってはいなかったのだ。もちろんあの科学者ニュートンさんも。さて、僕がここで何を言いたいかと言えば、語られた言葉のその時の自分(私)の位置はどこに立つのか? ということなのだ。
◆どうしてそんなことが必要かって?、デカルトさんはずっと後の人で聖書に無関係なようだけど、私(自分)を考えて科学的に分析して、理性的に考えるには方法が必要であるといった人なのだ。”方法序説”というやつ。んで、パウロの手紙を読むにあたり、この辺をある程度かじっておけば、自分というものを神様相手に見つめた人パウロのことが少しは理解しやすくなるのではないかと思ったからなのです。さて、
◇「私は思う」(本来の自分がいる基点)は、まだ良しとして、次のその考えている自分を見つめて「そうしている自分」を規定していろ自分はどの視点(基点)に立っているのかということなのである。第三者としての自分という目線が入っているわけですね。ここの判断基準はどこにあるのか そうしているのを見つめる神の目線に近づいた自分がいるのではないかということ。生まれたままの人間なら、後者の目線は出てこないであろうと思う。後者の目線は省察者の目線だ・・・。こういう客観的に自己を見つめる目線。パウロさんはそういう目線で、自己の省察を通して、霊と肉ということを語ったのでした。いや、ばりばりのその道(神を信ずる者)のエリートだったから、まずはイエスに出会う前の先理解の自分の言葉の出所の省察は、十分と言えるほど出来ていたということなのである。
◆ガラテヤ人への手紙を読むとかなりの長期間パウロは、表舞台には実は出てこなかったのだ。ガラテヤⅠ(1:17~22)「また、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムに上らず、アラビアに出ていった。それから再びダマスコに帰った。その後、3年たってから~、キリストにある諸教会には顔は知られていなかった。」(2:1)「その後14年たってから~」
いずれ、パウロさんはこの間、自分の言葉でイエスの旧約来の言われてきた救い主の確証を自分の言葉で確認、獲得していったものであろうとの推察がなされてくるのである。・・・