◆パウロさんの自分というものの考えについての先理解の知識◆
いやはや、前置きや解説がいつもながらに多くて先に進まないでごめんなさいです。でも、パウロさんやはたまた、哲学というものは考えうるに自分ということが基点になっているのですね。かのソクラテスさんも”汝自身を知れ(あなた自信を知りなさい)”と語られたことはどういう場面で、いつ語られたのかというようなことはぼんやりしてても、その言葉だけは、高校時代倫理で習ったことだが、はっきり覚えているぞ!短い言葉だし・・・ねぇ。それで、パウロさんの手紙に自分とイエス、そして肉体と霊というような言葉が出てくるに、先理解として少しでも知識としてインプットしておくと少しはなるほどと合点がいくかも知れないと考えるのね。だから、助走がすごく今小難しくなってる訳。
◆この日記は、M・ルターさんのご推薦のヨハネ伝をずうっと読んできて、一世紀後半で書かれたその群れにイエスの業、つまり神でしか行えないだろうとの実証体験の証言者たちもいたと考えられる訳だから、まず、そこから僕らは(つまり、言葉以上にその神<イエス>の業が現実となったそのことからまずイエスを信ずる、その事実から)スタートしてみようということなのだ。
◇”肉”に関しては、復活の事実がある。ラザロそしてイエスご自身。まずは、ラザロの復活、ヨハネは死んで墓に入って四日もたって臭くなっているとラザロの姉妹に言わせていること。(11:39)それから、十二弟子のひとりトマスに、わたしは十字架につけられたその釘穴に指を入れて確かめないとイエスが復活したことを信じない(20:25)などと妙にリアルに言わせていること、そしてその後の復活したイエスとの出会い、その他多くの奇蹟。だから記者ヨハネは、福音書の中で、”わざそのものによって信じなさい”と何度も繰り返しイエスが語ったことばを強調しているのである。その事実からまず信じなさいと。我々にとって死は絶望ではない、ラザロは死後も続く希望を持って地上の生涯を終えたのだとキィエルケゴールは書く。トマスは復活したイエスに会って「わが主、わが神」と叫んだ。そして伝説によれば、AD51年、パウロがテサロニケへの手紙を書き始めたころ、既に自分自身を奴隷の身分に落としインドに伝道に就いたと言われている。この事実は何と考えたらいいのだろう。もしあなたが心から愛していた人が亡くなったとし(11:35イエスは涙を流された)、死んで葬られてから、よみがえって現れ普段道理にあなたに微笑んだらどうだろう。そうなのだ。この事実を信ずるということからスタートすれば、多くの偉そうな言葉など儚く消えていくというものだ。ヨハネはそれなら先理解の知識など不要なことだと、目で見て、手で触れて確かなものを信じるのだと第一の手紙に書くのだ。
◇「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。それが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」。(14:11) とイエスは言われた。
◇次に”霊”。ヨハネ福音書で、イエスはユダヤ人の教師ニコデモに地上における霊の動きのことについて、それは常識のように語って、イスラエルの教師でありながらそのようなことも分からないのかと言っている。それは、「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と話されたことである。ここでなんどもイエスは「よくよく言っておく」と繰り返す。「だれでも、水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(3:6)と。我等は昨今のニュースにおいても人を簡単に殺めるような事件が起きていて特に幼い子供が命を落とすのは本当に悔しい思いがする。わたし達は本当に心しないといけない。肉体は滅んでも霊は死なないのだ。この肉体は、多くのだだよう霊の中にあるように思われる。そこで地上においてイエスが言われる潔い霊につながらなければ行けない。それが聖霊であろうと僕は考える。さて、パウロはローマ人への手紙においてどう述べているのだろうか・・・Ω
いやはや、前置きや解説がいつもながらに多くて先に進まないでごめんなさいです。でも、パウロさんやはたまた、哲学というものは考えうるに自分ということが基点になっているのですね。かのソクラテスさんも”汝自身を知れ(あなた自信を知りなさい)”と語られたことはどういう場面で、いつ語られたのかというようなことはぼんやりしてても、その言葉だけは、高校時代倫理で習ったことだが、はっきり覚えているぞ!短い言葉だし・・・ねぇ。それで、パウロさんの手紙に自分とイエス、そして肉体と霊というような言葉が出てくるに、先理解として少しでも知識としてインプットしておくと少しはなるほどと合点がいくかも知れないと考えるのね。だから、助走がすごく今小難しくなってる訳。
◆この日記は、M・ルターさんのご推薦のヨハネ伝をずうっと読んできて、一世紀後半で書かれたその群れにイエスの業、つまり神でしか行えないだろうとの実証体験の証言者たちもいたと考えられる訳だから、まず、そこから僕らは(つまり、言葉以上にその神<イエス>の業が現実となったそのことからまずイエスを信ずる、その事実から)スタートしてみようということなのだ。
◇”肉”に関しては、復活の事実がある。ラザロそしてイエスご自身。まずは、ラザロの復活、ヨハネは死んで墓に入って四日もたって臭くなっているとラザロの姉妹に言わせていること。(11:39)それから、十二弟子のひとりトマスに、わたしは十字架につけられたその釘穴に指を入れて確かめないとイエスが復活したことを信じない(20:25)などと妙にリアルに言わせていること、そしてその後の復活したイエスとの出会い、その他多くの奇蹟。だから記者ヨハネは、福音書の中で、”わざそのものによって信じなさい”と何度も繰り返しイエスが語ったことばを強調しているのである。その事実からまず信じなさいと。我々にとって死は絶望ではない、ラザロは死後も続く希望を持って地上の生涯を終えたのだとキィエルケゴールは書く。トマスは復活したイエスに会って「わが主、わが神」と叫んだ。そして伝説によれば、AD51年、パウロがテサロニケへの手紙を書き始めたころ、既に自分自身を奴隷の身分に落としインドに伝道に就いたと言われている。この事実は何と考えたらいいのだろう。もしあなたが心から愛していた人が亡くなったとし(11:35イエスは涙を流された)、死んで葬られてから、よみがえって現れ普段道理にあなたに微笑んだらどうだろう。そうなのだ。この事実を信ずるということからスタートすれば、多くの偉そうな言葉など儚く消えていくというものだ。ヨハネはそれなら先理解の知識など不要なことだと、目で見て、手で触れて確かなものを信じるのだと第一の手紙に書くのだ。
◇「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。それが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」。(14:11) とイエスは言われた。
◇次に”霊”。ヨハネ福音書で、イエスはユダヤ人の教師ニコデモに地上における霊の動きのことについて、それは常識のように語って、イスラエルの教師でありながらそのようなことも分からないのかと言っている。それは、「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と話されたことである。ここでなんどもイエスは「よくよく言っておく」と繰り返す。「だれでも、水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(3:6)と。我等は昨今のニュースにおいても人を簡単に殺めるような事件が起きていて特に幼い子供が命を落とすのは本当に悔しい思いがする。わたし達は本当に心しないといけない。肉体は滅んでも霊は死なないのだ。この肉体は、多くのだだよう霊の中にあるように思われる。そこで地上においてイエスが言われる潔い霊につながらなければ行けない。それが聖霊であろうと僕は考える。さて、パウロはローマ人への手紙においてどう述べているのだろうか・・・Ω