◆世界のベストセラー聖書を読む◆
僕のブログは聖書のことを書き始めてからずっと繋がっている。どちらにしても聖書というのは天地創造から、再びパラダイスに帰還するまでいつの時代も、今も生き、動き、働いているという神と連携しているのだ。聖書自体の考えがずっと見えないけれど、神を考えるという思考のネットワークで霊として脈々と継続しているんだ・・・という感覚。それは今までの歴史の中に出たり、隠れたりするけれど、天地創造の神は存在し、生き、動き、働いているということは、聖書の語らんとすることを身に付けた人は、そういう普遍的な思考をする。そういう考え、ここに戻るといったらいいかと思う。パウロさんの手紙を読み始めるまえに今一度、手短にブログの初めに僕が書いたことに少し触れる。(おい!168回目にもなったのに最初に戻るのかい。いやいや、神は前も後ろも無いのだよ。それは、鳥さんになったつもりで広い視線で考え、蟻さん の思考で今をしっかり自分の言葉でとらえることだな。)
◆つまり、いつの時代も読まれるために書かれたし、書く者も読む者も時代背景に、そして置かれた立場、さらに当事者の状況により書かれる思考、読まされる意識とは異なるものだから、そのことを踏まえて読むべきであり、2016年に生きる僕らは、今の状況と立場で今を語る神の言葉を読み取らねばならないということだ。何でもかんでも、ありがたいお言葉として、受け取るのはどだい無理だろう。ただし特別な例外がありそれがイエスが語られた上からの一方向性の言葉なのだよ。僕は書いた人も人間であって啓示を授けたのは神であろうが、使徒といえども肉として、その当時その時代の制約を受けた人間が書いて時代に語っている訳だからすべて丸飲みは消化不良を起こす。んで、その中で今の自分に何を語るかを精密に読み取らねばいけないよということを言いたいのだ。これが神の静かなる声を黙想の中で、祈りの中で聞き分けるということだと思わされている訳です。
◆聖書を読むとき、初めての人は、まずさっぱり分からない。かろうじて、よきサマリヤ人の話などが心情的に分かりそう。この国の人々というか、人間という生き物は、困っている人を助けるなどというのはなぜか敏感なのだね。心情的な話は分かったつもりでいるかも・・・だけれど、このイエスのたとえ話は、実は大変厳しいものなのだ。例えの中に出てくる人物、その時代背景、歴史などを考慮すると神様はみんなに優しい・・・どころではない。ここいらあたりから哲学、思想のジャンルに登録の意味合いが出てくるか。
◇そのようなことを言うのはなぜか、僕らの普段の考えに戻して考えてみる。この例えでイエスの言わんとした目的は何か。僕らはいかに動物としての心情的なしがらみにまとわりつかれ、それで人を判断していることだろう。この例えの歴史と状況とそれぞれの立場を学ぶと分かってくる。
◆人間は天地創造の父なる神に創造された・・・としよう。ここで優しいとか、優しくないとか、いいとか、悪いとかの判断基準は誰が決めたのかとうことだ。実は、この天地創造来、人間が神から言われたエデンの園で言われた戒めを破ったが故に、常に誰でもが自分を正当化するために、自分自信を知る以前にそのことによって人を裁いて精神的に優位に立とうとする優越なる遺伝子に組み込まれたものを抱えていることが身に染みついているのが分かるのだな。それは、食べることを禁じられたエデンの中央の二本の木、生命の木と善悪を知る木の内、善悪を知る木の実を食べたからなのさ。だから男は戦争でお互い正しいとして殺し合いするけれど、日常ではエバ(女性)は特にこの思いがめちゃくちゃに激しいのさ。(女の方ごめんなさい)思いこんだら、何が何でも自己肯定化するためにその否定的な誘因をあえて作り出しも信じ込む嫌いがあるな・・・と思う。<シモーヌ・ヴェーユという女性哲学者がおられたでしょ。この方カトリックでなくてプロテスタントであれば、全く異なった考えができたのではないかといつもこの聖書の話を思うと考えてしまうのよ>
◇だから、「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ」というテサロニケ人への手紙第一の手紙第5章16~18節は、僕の座右の銘となるんだ。この手紙はパウロさんが福音書が著される以前に新約聖書の中では文字で書かれたもっとも早いものと言われている。・・・Ω
僕のブログは聖書のことを書き始めてからずっと繋がっている。どちらにしても聖書というのは天地創造から、再びパラダイスに帰還するまでいつの時代も、今も生き、動き、働いているという神と連携しているのだ。聖書自体の考えがずっと見えないけれど、神を考えるという思考のネットワークで霊として脈々と継続しているんだ・・・という感覚。それは今までの歴史の中に出たり、隠れたりするけれど、天地創造の神は存在し、生き、動き、働いているということは、聖書の語らんとすることを身に付けた人は、そういう普遍的な思考をする。そういう考え、ここに戻るといったらいいかと思う。パウロさんの手紙を読み始めるまえに今一度、手短にブログの初めに僕が書いたことに少し触れる。(おい!168回目にもなったのに最初に戻るのかい。いやいや、神は前も後ろも無いのだよ。それは、鳥さんになったつもりで広い視線で考え、蟻さん の思考で今をしっかり自分の言葉でとらえることだな。)
◆つまり、いつの時代も読まれるために書かれたし、書く者も読む者も時代背景に、そして置かれた立場、さらに当事者の状況により書かれる思考、読まされる意識とは異なるものだから、そのことを踏まえて読むべきであり、2016年に生きる僕らは、今の状況と立場で今を語る神の言葉を読み取らねばならないということだ。何でもかんでも、ありがたいお言葉として、受け取るのはどだい無理だろう。ただし特別な例外がありそれがイエスが語られた上からの一方向性の言葉なのだよ。僕は書いた人も人間であって啓示を授けたのは神であろうが、使徒といえども肉として、その当時その時代の制約を受けた人間が書いて時代に語っている訳だからすべて丸飲みは消化不良を起こす。んで、その中で今の自分に何を語るかを精密に読み取らねばいけないよということを言いたいのだ。これが神の静かなる声を黙想の中で、祈りの中で聞き分けるということだと思わされている訳です。
◆聖書を読むとき、初めての人は、まずさっぱり分からない。かろうじて、よきサマリヤ人の話などが心情的に分かりそう。この国の人々というか、人間という生き物は、困っている人を助けるなどというのはなぜか敏感なのだね。心情的な話は分かったつもりでいるかも・・・だけれど、このイエスのたとえ話は、実は大変厳しいものなのだ。例えの中に出てくる人物、その時代背景、歴史などを考慮すると神様はみんなに優しい・・・どころではない。ここいらあたりから哲学、思想のジャンルに登録の意味合いが出てくるか。
◇そのようなことを言うのはなぜか、僕らの普段の考えに戻して考えてみる。この例えでイエスの言わんとした目的は何か。僕らはいかに動物としての心情的なしがらみにまとわりつかれ、それで人を判断していることだろう。この例えの歴史と状況とそれぞれの立場を学ぶと分かってくる。
◆人間は天地創造の父なる神に創造された・・・としよう。ここで優しいとか、優しくないとか、いいとか、悪いとかの判断基準は誰が決めたのかとうことだ。実は、この天地創造来、人間が神から言われたエデンの園で言われた戒めを破ったが故に、常に誰でもが自分を正当化するために、自分自信を知る以前にそのことによって人を裁いて精神的に優位に立とうとする優越なる遺伝子に組み込まれたものを抱えていることが身に染みついているのが分かるのだな。それは、食べることを禁じられたエデンの中央の二本の木、生命の木と善悪を知る木の内、善悪を知る木の実を食べたからなのさ。だから男は戦争でお互い正しいとして殺し合いするけれど、日常ではエバ(女性)は特にこの思いがめちゃくちゃに激しいのさ。(女の方ごめんなさい)思いこんだら、何が何でも自己肯定化するためにその否定的な誘因をあえて作り出しも信じ込む嫌いがあるな・・・と思う。<シモーヌ・ヴェーユという女性哲学者がおられたでしょ。この方カトリックでなくてプロテスタントであれば、全く異なった考えができたのではないかといつもこの聖書の話を思うと考えてしまうのよ>
◇だから、「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ」というテサロニケ人への手紙第一の手紙第5章16~18節は、僕の座右の銘となるんだ。この手紙はパウロさんが福音書が著される以前に新約聖書の中では文字で書かれたもっとも早いものと言われている。・・・Ω