◆パウロさんの一番著名な新約聖書のローマ人への手紙◆
いきなり聖書の読み始めも何ですから、脱線を入れまして、後半に表題のことを書きたいと思います。さすがパウロさんには、時代背景やご自身の経歴、そして気質などいろいろ細かに直接尋ねてみたいと思われる方がおられるでしょうが(そして、それは自分の言葉で読まれようとされる方には必要なことだし、そのことによってより当時のパウロさんの思いがより分かると思うので大切なことだと思います。パウロさんが真に伝えたいイエスの言葉が直接あなたに必ずや聞こえて来るに違いないと思います。)神に異邦人伝道者として別たれた方ですから、僕ら異邦人にはその内なる燃え上がるような闘志には圧倒されて元気が出ますよ。
◆ローマ人への手紙は、パウロさんが神からの啓示として受け取った教理(真理と受け止めた教えの体系)とも言えるものですね。パウロさんの手紙でとくにこれほど世界中で解説書が書かれたものはないと思います。日本でおそらく一番読まれております聖書は日本聖書協会からの新共同訳「聖書」だと思いますが(口語訳を使っているところはごめんなさい。他の宗派の方がおられたらごめんなさいです。)読む人が分かりやすいように、内容の説明が節のくくりごとに表題がゴチックで書いてあります。不完全で限界のある僕らには(罪ある人間はといった方がいいのでしょうが、”罪”というのもどういうことかと僕ら異邦人にはきちんと先理解しておかねばなりません。実は一般のかたが常識的にまず、毛嫌いと面食らうのはこのことで・・・)機械的に読むだけであれば、1時間もしないでこの手紙は読めますが、パウロさん曰く神からの啓示ということに関しては、真摯な思いでとり組みませんとパウロさんのような燃えるようなイエスを異邦人に伝え、共にその喜びにあずかり励まし合うという感覚にならないかも知れませんよ。
◇どうぞ、その思いのさわりにでも触れてあなたご自身もあなた自身の普段の言葉でイエスと語り会えるようになって欲しいと願います。ご注意は、啓示なりの真のところに触れたく確かなものにされたい方は、一転僕の考えだけでは白旗を振ります。どうぞ福音主義のキリスト教会へ行かれて牧師さんのお話を聞くために通い続けて欲しいと思います。そこではきっと機械的知識ではなく、共にイエスと語るご自身の言葉を見つけ出せると思います。それは、そこには共同体の群れから、また多くを学ぶことができるからです。そして実際はそちらが大切なのですが、この日記の趣旨からはずれますのでこれ以上は書きませんが 大切なのは自分の言葉です。(常に祈りなさい、とはそういうことだと思っています。これはイエスとの会話です。)
◇自分のものにしてしまう不完全な人間の集まりに対して、これでOKとういう自己満足が出てきて分かったようになることに対して(それはある到達点に行くのは大切なことなのですが、それに満足し腐敗が生じてくることに対して常に神は「Nein!」(違う)と言うのでは無いでしょうか。これが今までの歴史に中で生ぬるくなった時代にあのニーチェが「アンチ・クリスト」を書いた理由でしょう。(彼は牧師の息子で秀才でした)。その道の方で、彼をあれは読むべきではないなどとおられる方もおりましょうが、(だから、後年発狂したのだと言い放つ人がいるのですのですが)人間のうごめいたきた歴史というものをもう少し勉強されることを望みます。そういう意味からも戦争で人殺しする歴史を体験したかのカール・バルトは「Nein!」と言ったのだと僕は思います(これについては先の回読まれたし)。さて、
◆パウロがイメージ的にどんな方かというとふさわしい写真がありましたので掲載します。
(ローマのサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会の前の聖パウロ像)
やっぱりこんなイメージですね。剣を持つことなどまずなかったでしょうが、異邦 人伝道に燃えていた熱血漢であり、ローマ市民権を持っており、生粋のヘブライ人であり、当時の筆頭の律法学者ガマリエルに学んだし、非の打ち所のないエリートだった人。復活されたイエスに会い、180度考えを入れ替えて異邦人伝道者となったパウロ。かっこえぇ!
・・・ Ω
いきなり聖書の読み始めも何ですから、脱線を入れまして、後半に表題のことを書きたいと思います。さすがパウロさんには、時代背景やご自身の経歴、そして気質などいろいろ細かに直接尋ねてみたいと思われる方がおられるでしょうが(そして、それは自分の言葉で読まれようとされる方には必要なことだし、そのことによってより当時のパウロさんの思いがより分かると思うので大切なことだと思います。パウロさんが真に伝えたいイエスの言葉が直接あなたに必ずや聞こえて来るに違いないと思います。)神に異邦人伝道者として別たれた方ですから、僕ら異邦人にはその内なる燃え上がるような闘志には圧倒されて元気が出ますよ。
◆ローマ人への手紙は、パウロさんが神からの啓示として受け取った教理(真理と受け止めた教えの体系)とも言えるものですね。パウロさんの手紙でとくにこれほど世界中で解説書が書かれたものはないと思います。日本でおそらく一番読まれております聖書は日本聖書協会からの新共同訳「聖書」だと思いますが(口語訳を使っているところはごめんなさい。他の宗派の方がおられたらごめんなさいです。)読む人が分かりやすいように、内容の説明が節のくくりごとに表題がゴチックで書いてあります。不完全で限界のある僕らには(罪ある人間はといった方がいいのでしょうが、”罪”というのもどういうことかと僕ら異邦人にはきちんと先理解しておかねばなりません。実は一般のかたが常識的にまず、毛嫌いと面食らうのはこのことで・・・)機械的に読むだけであれば、1時間もしないでこの手紙は読めますが、パウロさん曰く神からの啓示ということに関しては、真摯な思いでとり組みませんとパウロさんのような燃えるようなイエスを異邦人に伝え、共にその喜びにあずかり励まし合うという感覚にならないかも知れませんよ。
◇どうぞ、その思いのさわりにでも触れてあなたご自身もあなた自身の普段の言葉でイエスと語り会えるようになって欲しいと願います。ご注意は、啓示なりの真のところに触れたく確かなものにされたい方は、一転僕の考えだけでは白旗を振ります。どうぞ福音主義のキリスト教会へ行かれて牧師さんのお話を聞くために通い続けて欲しいと思います。そこではきっと機械的知識ではなく、共にイエスと語るご自身の言葉を見つけ出せると思います。それは、そこには共同体の群れから、また多くを学ぶことができるからです。そして実際はそちらが大切なのですが、この日記の趣旨からはずれますのでこれ以上は書きませんが 大切なのは自分の言葉です。(常に祈りなさい、とはそういうことだと思っています。これはイエスとの会話です。)
◇自分のものにしてしまう不完全な人間の集まりに対して、これでOKとういう自己満足が出てきて分かったようになることに対して(それはある到達点に行くのは大切なことなのですが、それに満足し腐敗が生じてくることに対して常に神は「Nein!」(違う)と言うのでは無いでしょうか。これが今までの歴史に中で生ぬるくなった時代にあのニーチェが「アンチ・クリスト」を書いた理由でしょう。(彼は牧師の息子で秀才でした)。その道の方で、彼をあれは読むべきではないなどとおられる方もおりましょうが、(だから、後年発狂したのだと言い放つ人がいるのですのですが)人間のうごめいたきた歴史というものをもう少し勉強されることを望みます。そういう意味からも戦争で人殺しする歴史を体験したかのカール・バルトは「Nein!」と言ったのだと僕は思います(これについては先の回読まれたし)。さて、
◆パウロがイメージ的にどんな方かというとふさわしい写真がありましたので掲載します。
(ローマのサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会の前の聖パウロ像)
やっぱりこんなイメージですね。剣を持つことなどまずなかったでしょうが、異邦 人伝道に燃えていた熱血漢であり、ローマ市民権を持っており、生粋のヘブライ人であり、当時の筆頭の律法学者ガマリエルに学んだし、非の打ち所のないエリートだった人。復活されたイエスに会い、180度考えを入れ替えて異邦人伝道者となったパウロ。かっこえぇ!
・・・ Ω