考えて見ると、僕らの思考はかなり制限されているわなぁ。誰でも人として、つまり生き物としてニャンコは愛玩する対象であるし、それも気持ちの上だけで、家に引き込んでかわいがろうとするなど、結構、ニャンコにとっては嫌なことなのではあるまいか。
ただし、餌についてだが、この餌付けによって訓練するというのもなんだろうなぁ。デイサービスに飼われているニャンコは毛並みのきれいだし、抱かれても素直におとなしくしているのだったが、個人宅で飼われているのは、住人の(飼い主の)性格が、ニャンコに同期すのだろう。
僕は、天真爛漫がすきだから、人からの干渉も受けず、自由に野山をほっつき歩いて、腹が減れば、また餌にありつこうと、いつもの定位置でまっている、なんて言う、そういう野良猫がすきなのであった。猫にとってはしんどいだろうけれど。
それに第一、猫は自分の生涯が終わろうとする時を知っているようで、自分の死骸を他にさらさない。自然に人前から姿を消すので、僕はそれが何かもの悲しくて、しかも自然に土に帰るという本能があるのが、好きなのである。
そう言いつつ、猫がそれほど個体により性格が異なって居るということは、同じ動物として、それでは『人はどうなのだ』、というのがいつも僕が何をしている時においても、その深層で考えていることなのであった。