marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その1)ミニマリストと貧乏症:本来の個人的な資本主義

2024-09-18 11:05:35 | 日記

 初めに・・・僕はイデオロギーが先に来る政治というのは、おかしいと思ってしまうのです。先にあったのは資本主義というイデオロギーではない。始まりは希望、願望であり、それは「私の喜びはみんなの喜びでもある」という考えが、スタートだったと思うのですね。

けれども、それでお金を稼ぎ、みんなの幸福追求のスタートが、その高まり欲求が過剰になったり、儲けの目的を見失い、本末転倒になると、大きい企業になれば、従業員も儲けの道具の手段の一部になってしまう。

グレシャムだか、「悪貨は良貨を駆逐する」などと言うことばがあったけど、儲けの手段の役割を果たす貨幣も、質が悪くても同じ働きをするなら、質のいい貨幣でなくてもいいじゃん。といのは、当然、そういう傾向になるので、その限界の追及と維持が、企業にとっては大事となるわけです。

最小限の問題ない、経費限界はどこか、などということから、品質保証テクニカルが駆使されて進歩してきた訳。

もとはこんな話だったか。アメリカの鉄鋼王カーネーギーでしたか。線路の杭に使う釘が最低何本で問題ないと言えるか、石油や酒を運ぶ樽のタガと周囲の釘は、最低何本で運搬上問題ないか、というようなことを実験して釘(鉄)の消費をギリギリに抑えて経費ロスを抑えていったことから始まったとか・・・。

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で、企業は、どこまで内なる経費を絞れるか、が追求課題となって、給与は従業員の生活があるから、簡単に安くできないが、マルクス・エンゲルスの共産主義は、資本主義は、働くその人まで道具となって、企業に搾取される対象となるのだ・・・と。資本主義の終焉には、共産主義が到来するという。

と言っても、日本共産党は、決してすべての否定しているわけでもない。〔当の方針には、多様な意見が必要だから反対することはないですが、ご都合主義にもとられてしかたないか。)

最近、気になるのが、共産主義の前に、「社会主義」という言葉を、しきりにつけるようになったこと。これは、blogで前にも党員の方に質問した手紙を掲載したのですが、返事は来ませんでした。それからこれも、共産主義の考えには「自由」がある、としきりに「自由」という言葉を使うようになったこと。

 綱領は、一般の世界時事評論のようにしか読めませんね。

「自由」という言葉ほど曲者のことばは、ないと思うけどね。すぐ思い出したのは、エーリッヒ・フロムの1941年かに書かれた『自由からの遁走』(日高六郎訳だった、確か)という本。この人はユダヤ人ジャーナリストだった。まあ、自分の芯がしっかりしてないと、権威に従う人間になってしまうという、当時のナチスに酔った大衆を批判したものだった。

僕は、それぞれの考えは多様であるから前進すると思っているが、この国には、欧米のように基本のたたき台がない、あっても、とても人の言葉で追求して行くような哲学がない。人の言葉で追求する土台がぼんやりしている。よって、欧米のそれとは戦えないだろうと思ってしまうのです。

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それと、不思議にこの国では、それらのことが学校では教えられない、ことになっているのですね。

当地方の大学の先生の書いた「日本国憲法原論」という本を古本屋で買った。200円なり。確か大学一年の一般教養でのもの。値段のシールに「コンプライアンス図書」と貼られていた。なんでだ~??

この国の次期総裁選があって、もろもろ普段考えてきたことを書いてみました。・・・つづく