marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(223回目)ローマ人への手紙(10章1節~4節)その2

2017-01-03 06:01:52 | 日記
次の節に進む前に。その2として・・・
◆第10章は、兄弟たちよ。という語りかけから始まります。パウロの手紙で、あなた、あなたがた、兄弟たち、と語りかける相手を変えていることに留意したい。それぞれ語りかける内容に、相手の知識の先理解の知識に対するパウロの配慮があるようだ。
◇ここで、兄弟たちよ、との語りかけは十分、先祖伝来の言い伝え、ラビ(教師)などから聖書やその他の多くのしきたりを学んで或程度理解されていることが前提となっている者に対する言いようであることが理解されます。当時のローマ、その他、地中海と言わずすでに多くの離散した(旧約からの歴史的な流れ、神の御計画と言えばいいか)ユダヤ人たちがあちらこちらで集まり、決まって聖書(旧約)のしきたりを守り、話し合う時を持っていたのだから。そこでは、異邦人キリスト者もいたのがわかります。その人達の中で、パウロが核心に迫ることをこれから論じても先の理解があるから、よく考えられるはずだという確信が”兄弟たち”という語りかけにはあったのですね。
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(10:2)には、「神に対しては熱心であるが、その熱心は深い理解によるものではない」とパウロは述べています。
僕などは、知識がなくとも熱心になることができるということに関して、どこぞやの国も同じかなと考えてしまいますね。
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◇”兄弟たち”は本来パウロほど熱心なパリサイ派を生むほどなのに、外側の肉による律法を重視するが故に(律法のみを重視するが故にといった方がよいか)、聖書(旧約)の深い知識を持つことが困難であった。だから、真の神の義を知らなかった(自分の義をたてるにのみに努め)ということを述べているです。ということはその深い知識によるということはどういうことなのだろうか。
◇そこで(10:4)には「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたからである」と述べています。う~む。こういう書きようが聖書のむずかしさというか、パウロの難解なところか・・・と思いますが、曰く、先に述べたように、すでにある程度(それまでのという前書きを付けた方がいいだろうけれど)”義”とか”律法”は、どういうものかということを、体にしみこませているほどに理解している人々にそう言っているのですね。
◆(10:4)のパウロの言葉は、イエスご自身が「自分は律法を完成させるために来た、とか、一点一画も神の言葉が捨てられることは無い」というような言葉を話されたことに通づる言葉かもしれません。
◆それでは、神の義を知るための、深い知識とはどうしたら得ることができるのだろうか。・・・ 

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