◆前回に書いたように彼女の作品の評価ではなく、この人についてである。長編『日没』を出された内容は、国がどこかの国のように都合の悪いと思ったことは、口封じをして動いてその傾向になりつつ、現実味が増してきているのではないかと思わされる作品です。で、この作家は、どうして暗く、重い作品ばかり書かれるのかと思っていたのです。彼女はこのように話しています。ここに原点があるようです。「私は、もともと、自分の責任ではない生まれや性別で人が差別されたり弾圧されることがすごく嫌なんです。だから、差別や弾圧の問題には関心がありました。旧ソ連の収容所やナチスのアウシュビッツ収容所、ユダヤ人虐殺などの本などを読んだりしてきました。そんな素地があり、私が一番恐れていること、物を書く人が弾圧されたらどうだろうという話を書きました。日本でも、やがてそういうことが起こるかもしれない。そんな危機感が推進力になりました。」・・・◆作家活動の推進力は、差別、弾圧からの解放を目指した指向でした。・・・
◆僕が小説を読むときに、その作家の心理といえばいいか、その作品を書かしめる基点となっているものは何なんだろうかとすぐ考えてしまう。作品そのものより、それを書く作家自身の考えの原動力みたいなもの。無論、本来は文章の書き方がうまい、というのが本当なのだろうけれど。そんなことを考えていると、実は面白くないのだろうが、僕にとっては、創作された文章そのものが事実よりその時代にそのことばをもち、その作品を著した生身の人間、作家の心理を思う方がのちのち残るのではないだろうかと思うし、その解明はきっと作家でないわれら凡人にもいいい意味で多くのことを教えてくれるのではないだろうかと思っているのだ。◆それで、だいたい、作家のその書く原動力というようなことがわかれば(と勝手に思っているだけだが)あとは読もうとは思わない。これはあくまで、小説の類でノンフィクションは別である。作家(これじゃ著者と書くのが適切か)の手法はあるだろうが、これは事実という対象の追及であろうから。だからというか、けれど、と言えばいいいか、僕の求めるジャンルは宗教的な類である。そして、その起源というか、その派生でいかに社会や歴史が動いてきたかなど、など・・・である。◆しかし、人生は短く、学なりがたしであり、体を動かし農作業でもしないと生きてることの真実は見えてこないと僕は思っているのである。使徒パウロは言う。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と。覚える事柄はまったく多くないのだ、と。
世界のベストセラーを読む(605回) 僕らの生まれ故郷(都会でも田舎でも)の身近にあること
宗教法人の税制面での決まり事の説明が国主催で各全国エリアで行われた集会(北海道、東北地域とある)が、当地であったので出かけると田舎の実家の寺(真言宗智山派)の若い住職も見えられて......
◆1年前のブログから1年後の自分はと問いかけてみるに、底辺に流れているもの、僕の求めている、その目標は変わらない。毎朝、BSで世界のニュースを見る。どこも新型コロナ蔓延の話題だ。どこの国のひとも、否、人と言わず生命あるものは死んでいくのだ。多くの人が亡くなった。結局、人は生まれて、生きて、死んでいくだけだ・・・と暗く、冷たい影が背後にふっと吹き付ける。人は何故、生きるのか。死んだらどうなるのか・・・。こんな青臭い思いが、今もふっと頭を持ち上げる。
◆全世界の人々が命のことを考えざるを得ない、この時代。人生が一度しかないというのに。それぞれの人生を変えるほどの大きな激動の時代となった今、命のあること、そして自分の人生の意味を真摯に考えよう。インターネットも進み、瞬時に世界中の人が地球の裏側の情報も得ることができるようになった今。世界中の人々が「人が生きるているということ」を共通認識として持ちうることなどはかつてなかったことだ。 人は神を制限された中で神を考えることができるし、高い次元での我々という地球上の万物の霊長である人を考える時代となった。◆「哲学は神学の僕である」などという言葉があったけれど、神の言葉と共に先行していたのが、それを理解するための同時に先理解としてのギリシャ哲学だった。人が神の知識を具体的に流布するために、人が神の言葉を責任を持って受け取るための備えとして。新約聖書の手紙を多く著した使徒パウロは、夢で知らされたマケドニア(ギリシャ)人の叫びを神の示しと受け取って、そこを目指して旅立った。◆欧米の哲学は、そういう人とはいかなるものか、その人の集まりとはいかなるものか、その歴史とはどうなのか、それが人間がいて国があって、神が愛したという人がこの地上で多くの生業をなしていることは、「そのことを考えよ」と神が警告されているのだろうと考えられなくもない事件が起こっているということである。◆それが、世界の共通の災害ともなっているウィルスの蔓延である。人種の言葉の違い、政治的イデオロギーの違いなど多々あろうけれど、人は生きていなければ、人類のドラマは演じられないのだと非常なる叫びに、僕ら地上で生きているそのこと自体をよくよく考えてみなくてはならないと。聖書には、終わりが近づくと地上の多くの者が死ぬであろうと様々な表現で警告されている。武器による戦争ではなく、こういう手段もあったのかと非常なる恐れを感じているのである。・・・続く
◆僕、個人にとってはそこに書かれているエッセンスから統べてが始まっているのだが、「世界のベストセラー・・・」と書くと限定されてしまう。つまり、人という生き物、無論、自分という生き物も含めてなのだが、自分を知ろうとすれば、まったく駄目な自分という生き物でも、神が最後に自分の似姿に創造された最高傑作が人という生き物だったと書かれている訳だから(創世記第1章26節)、少なくとも神に近づく一番てっとり早い方法なのではないかと思ってきたのである。◆実はこれが実に難題なのだった。自分を客観的に判断するその土台は、どこにあるのだ。第三者的に自分という生き物を評価するには、判断指標を持たなければなるまい。それに、そもそもそれを駆使する言葉も磨かねばなるまいということ。そして思うには、そもそも人が勉強して知識を得るなどとう行為は、すべてがそこにあったのではないかということに気づかされてくるのである。◆人々に「人生は生涯勉強だ」などというのは、つまるところ次の世界に入っていくのは生き物として必然のことだから、「みこころの天におけるごとく地にもなさせ給え」(主の祈りの一節)と、これはお題目ではなく、我々、地上の人類が神からインプレションを受けて実に今、目の前にある現実を改革前進させるべく(力む必要はなく、日々新しく)という現実の変革をそれぞれが持ちうるということを神を知ればなしうるのであるとを示しているのである。・・・続く