◆ブログ776回の再表記。アメリカで内村は、12月5日の日記にこう書いています。「神は、20世紀にわたる訓練によってもたらされた、私の国民の性格が、欧米の思想によって、すっかり取り替えられることを望まれない。キリスト教の美しさは、神の、各国の、各国民に与えられたすべての独自性を、聖化しうることである。・・・」と。同感である。◆事実人は誰でも、自分の力では消せない過去を背負っているものです。それが、集まり民衆の伝統や文化などをもたらしてきます。善しにつけ悪しきにつけ。しかし、とくに宗教の信仰面においてなどは、人の命に関わる事柄のであるので、ある目線から見れば的外れがあります。それは、使途パウロもギリシャ人にとうとうと述べたことでありました。「多くの神々が刻まれた石碑を見て」「知られざる神に」とまで書かれてある石碑を見たパウロは「信仰深いあなた方に本当の神を知らせましょう、と」。それは、神の霊に導かれ、パウロが哲学の国、ギリシャに向かって以降、人の言葉の哲学と融合し、まさにそういう先人達の長い言葉の歴史の戦いの中で、現代の豊かな時代を形成してきているという事実につながっているのです。◆その深層には、神が選ばれたといわれた民族、ユダヤ人が全世界に離散させられたという実に深い摂理が横たわっているのです。***イエスは言われた。「・・・救はユダヤ人から来るからである。」(ヨハネ伝4:22)
◆第46代アメリカ大統領ジョー・バイデン氏の就任演説。ジョージ・ワシントン、エーブラハム・リンカン、キング牧師の名前があがる。教父アウグスティヌスまでの名前までも・・・。歴代の民主主義の為に戦った人々を振り返る。創世は、何においても困難があってもそれなりに輝かしい。理想と希望に燃えて命を懸けてもそれを発するのだから。いずこの新聞にも就任演説の全文が掲載されたが、言葉だけならその辺の教養あるキリスト者もかける内容かも・・・などといえばお叱りを受けるが、現実は厳しく、事実残酷である。◆理想と現実。しかし、問題はいつの時代もここにおいてもSDG’s(持続的開発目標)なのだ。国を構成する人民の心持ち。メディアでコントロールしつつも実際、それが現実にそぐわなくなるのは、結局、そこにいる命ある人なのである。そこで、人権などを持ち出しても、方や1%のほとんどの富を持つ人々はそれにふさわしいとは思われない人々へのお金の配分をなぜ、担わなければいけないのか? 国境の壁が崩れ、まさにどこの馬の骨ともわからない多くの移民が再び南から流れ込んで来ているというのに・・・である。◆アメリカ国民とは一体誰のことをいうのか。理想に燃え、希望を託し、夢を語ろうとも、それほど霊的スキルの向上をいかに望むべきか?! 問題課題は、実に「人間とは何か」なのである。キリスト教国にて、内村鑑三が深く思わされた現実は、まさに十字架が建ったあなた方の足元をまずよく見よ!なのだった。・・・続く
◆「数学は科学の女王である」と中学時代、教室に貼られていた。「哲学は神学の僕である」という言葉もある。使徒パウロが、キリストの霊に東(当時のアジア、現トルコの東方面)に行くことを遮られ、マケドニア(現:ギリシャ)に向かったのは、これも神の摂理かという思い。当時も、多くの絶大な宗教があったのだ。先のゾロアスター教(拝火教とも)は、遠く日本(奈良の大仏)へも影響を与えていると言われる。最大の教父と言われたアウグスチヌスもマニ教と戦った。しかし、先立つ、当時の哲学の国ギリシャにパウロが導かれたのは、実に我ら人の言葉に対して、自らの人の言葉で自らの足元を見よ、自分の足で立て(イエスも語る場面が多い)と語るものだったろう。キリスト教が言葉の宗教と言われるゆえんである。あぁ、面倒くさい?!◆宗教でありながら、他力本願でありつつ、自らの足で立ちなさい。パウロが当時の哲学と格闘したのは実に大きな意味があるのである。キリストは、観念にのみとどまらない、現実生活を変え、歴史を変えていく。「天になるごとく、地にもなさせ給え。」それは、事実、哲学を用い、現実を変えて来た。それは、天上の神であろうが、媒介となるのは地上の人なのであった。光に向かい前進する。光があれば闇ができる。無論、悪魔も人を媒介として命を抹殺しようと働いているのだ。◆アメリカの第46代大統領バイデンさんの就任がなされた。おおくの問題課題。アメリカ民主主義国家内の分裂。僕らこの国の普通の人々でも冷静に考えれば、何故、世界にそれが露出してきたのか。おおよそ分かることなのではないだろうか。ブログで述べたきた内村鑑三がアメリカで体験した拝金主義、人種差別、盗み・・・。何らその底辺での人の136年前のそれらとその底辺では変わっていないのだと。聖書が語る、パウロが獄中で祈りに求めて書いた多くの手紙を人が読み、伝統としてそれらが伝えてきたものも理解するのは、いかに難しいことなのだろうと。科学的思考者でもあった内村に”第9章キリスト教国にてー神学に触れる”の冒頭において、すでにこのことを見抜いているのである。◆哲学は、言葉の定義、その時代、発する者と受け取り聴く者、哲学自身の履歴をもって現状分析と将来への展望と。だから、僕らは今、どう考え生きるか。・・・続く
◆今日は、吹雪、窓枠にも雪が貼り付いて、朝、強風で目が冷めた。雪深い山奥の寺でも朝早く4時ころから、住職、雲水らがお勤めがされ経を唱え、坐禅を組む。寝起きに僕は、いつもこの時間帯にも、すでに雪深い山奥で、坐禅をしている雲水がいるのだ、この時間にすでに、と思いつつ意識を目覚めさせる。それらが行われている限り、この国は滅びないだろう・・・。◆アメリカ、キリスト教国の混乱。このような時こそ、内村の「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」の第6章以降のキリスト教国アメリカに渡った以降の体験記は、多くの人に読まれるべきだと思う。”これを読むように”とは、かつてどこの教会の牧師からも聞いたことがない。学びとしてはあるだろうけれど、少なくとも僕はなかった。それは、彼自身も序文で書いているとおり、「いかにして」であって「何故」ではないからである。実際、信仰を持つということは、「いかにして」と言うような自分が主体として受け入れようというものでは、決してないからである。いまでも、”まるごとわかるキリスト教”などという本はあるが、人の言葉の知識としてはいくらも増やせるだろうけれど、最終、人の書いた文字や言葉を越えたもの(ここが肝心)だからである。したがって、内村の本は、入信するための体験記とはなるが、これを理解すれば(すでにそこに人の言葉で表されているという限界がる)信者になれますよ、というものではないからである。◆科学的な思考も充分であったし、武士の流れをくむ、先祖伝来のアイデンティティーもしっかり持った(ここに古代、大陸から東まわりで日本に流れ着いた”信仰の核”のようなものをDNAに受け継いでいたのだろうと思われるが)内村の、特に「第9章のキリスト教国ー神学に触れる」の章は、とても鋭い的を得た常識的見解であると僕は思われてならない。ここで、真の命を与えられている、誰にも変わることができない自分と言う存在に、”霊の経験の実在感”とう個人的体験が言葉として出てくるのである。最終、信仰を持つとは、今も生き、動き、働いている神の側からの一方的な啓示によるものであるのです。・・・続く
世界のベストセラーを読む(616回) 東京にまた、散歩に行って来た・・・「人と言う生き物の組織のありうる姿(終わりにします)」
※先、ブログの間、東京にまた、散歩に行ってきました。よい天気、今年の正月は雪がなくて、それでも田舎からでて暑いくらい。何年ぶりだろう、電車の中の混雑を体験した。東京駅ホームに流れる......
◆gooさんから1年前のブログの記事。高校世界史ではここまで教えられている。ゾロアスター教やマニ教伝搬。形を変え日本にも多くの宗教が伝来していたのである。先ブログのとおり、イスラエル(ユダヤ人)の離散は、紀元前に起こっているのである。当然、かなり早くから日本にも来て同化していたのである。空海が学んだ長安には、すでにキリスト教(ネストリウス:景教)もあったのだ、師匠の恵果は空海にそこにも学ぶようにと勧めている。だから、高野山には当時、中国で建立されていた”大秦景教流行碑”のレプリカが建っている。