marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(810回) (その8)J ・P・ サルトルと論争したのはこの人

2021-02-22 11:23:12 | 小説
 
世界のベストセラーを読む(628回) 新型コロナウイルスの猛威 生存を脅かす不条理

◆2020年02年02日のブログ  新型コロナウィルスについて、14世紀に全欧の1/3の人口がなくなり政治、経済にも多大な影響を残したペスト(黒死病)のことを書いた。2018年6月......
 

◆影響を受けたサルトルはよく読んで学んだと大江健三郎は書いている。そして、カミュのことも、それはやはりあくまで文章の根本的な分類があるからだと述べているところでなのだが。小説の手法に拘っていた彼は、その言葉の表現にサルトル式、カミュ式などと一通り定めたと。それは『八章 虚構の仕掛けとなる私(p145)』に書かれているのであるが、やはり求めてきたのは「小説の方法」についてのことだと言っていることなのである。僕の中のひっかかりは、作家としてそれは当然だと思うけれど、書かれた小説はフィクションである。つまり嘘(創作)であるということ。これはが明らかに分かるけれど読んでていて分かるところ。それに彼自身の引用から受けたインスピ-レーションが飛躍して言葉に合体され表されるものだから、どうも吐き気がする時がある。う~む、難しいというより、彼のインスピレーションに著された言葉の更に先を読んでイメージを湧かさないと、ものすごい言葉の飛躍があるように僕には感じられてしまうのだ。◆悲観的哲学者ショーペンハウエルによれば、読書は人の頭で考えることだと。しかし、直接に引用文を小説に取り込んでいる訳だから。僕は、そもそも「人そのものはいかなるものなのか」が、いつも底辺にあってそれを追求したく思っているので、彼の手法追求は、かなり際どい挑戦をしているように思われてしかたがなかった。それがサルトルなのだと言われればそれまでなのだが。彼は、その創作行為を次のように自負しているのだ。***「『懐かしい年への手紙』への展開で、その後の私の小説の方法に重要な資産となったのは、自分の作ったフィクションが現実生活に入り込んで実際に生きた過去だと主張し始め、それが新しく基盤をなして次のフィクションが作られる複合的な構造が、私の小説の形となったことである。この点において、私は日本の近代、現代の私小説を解体した人間と呼ばれていいかも知れない。」(p144)


世界のベストセラーを読む(809回) (その7)大江健三郎の慕う渡辺一夫教授はあの評論家と東大の同窓だった

2021-02-22 00:23:36 | 小説

◆東大にもあまたの知られざる多くの先生がたが居られるにもかかわらず、渡辺一夫教授は、これまた、彼によって多くの読者に知られる方となった。実はこの先生は、あの彼をコケにした評論家小林秀雄と東京大学で同窓なのである。大江は、渡辺先生に晩年まで導いていただいたという。先生は、彼の小説の内容には全く関心なかったようだったが・・・。大江健三郎は、先の本の『六章 引用には力がある』に次に述べるような言葉を残している。そして、それは、前のブログにも書いたように誰でもが自分の人生を主体的に生きる希望を与えてくれるものではないだろうか、無論、人により微々たるものではあるだろうけれど。◆****「私にとって自分の小説家としての人生に有効な実際の教示をあたえられたのが、大学で教わったのみならず最晩年まで導いてくださった渡辺一夫教授だった。・・・ジャーナリズムの評価というか、端的に彼らのきみへの態度は、すぐにも変わるものでアテにならない。批評家の先生がたのきみへの対し方も同じ。彼らは偉い人たちだから、とくに! きみは自分の仕方で生きてゆかねばなりません。小説をどのように書いていくかは僕にはわかりませんが、ある詩人、作家、思想家を相手に、三年ほどずつ読むということをすれば、その時々の関心による読書とは別に、生涯続けられるし、少なくとも生きていく上で退屈しないでしょう! ・・・・それからの私の人生の原則は、この先生の言葉だった。」(p103) とある。◆僕らは地上に生を受けて、必然と短い人生をおくるわけだから、そして、僕らの知り得なかった先人たちの物語を聞くそのDNAが身体の中にわずかでも残されているのだから(サルトルはこの辺を全く認めない。信仰なんぞは持たない。存在の極限まで自己を見つめるというか、人の肉体と思考を剥がす思考をするように僕には思われるのだが、この辺がベルグソンを読んでたあの評論家には分からなかったのだろうけれど)その個々人の人生に於いて自分なりの物語を死ぬまで紡いでいく(誰でもがそうできる)、彼にとっては誰もが小説家になれるだろうと言っていることなのだ。少なくとも死ぬまで退屈しないでしょう・・・と。


世界のベストセラーを読む(808回) (その6)僕が大江健三郎という作家が好きな理由 

2021-02-21 08:27:39 | 小説

◆彼は自分の作品には引用が多いと述べている。「引用のオタク」であると。しかし、はじめ僕が読み始めた時、否、その本の題名から、これは聖書のあの言葉ではないか、などと思ったもので、しかも、そんまま引用して小説に用いている箇所もある。果たして、小説家としてこれは禁じ手ではないのか、と。しかし、宗教オタクの僕としては、彼の引用が殆ど海外の詩人、作家、思想家などからの引用なので、考えて見れば、その人達の殆どは、彼らの言葉を紡ぐその伝統、因習も含めて世界のベストセラー聖書に培われた言葉であると思われた訳で、僕個人としては実に嬉しいと思ったのだ。◆そこから、大江が何故、海外にも訳されて多く読まれている村上春樹と比較し、ノーベル文学賞など栄誉ある記録にのぼったのかと言えば、流行、時代背景も選奨に当然あるが、おおよそ推察ができるだろうというものだ。カズオ・イシグロやボブ・ディラン(僕は彼のCDを殆ど持っているが)などの賞をもらっても、それ以降の出版物の経済的効果はあっただろうが、その賞をもらった効果、つまり、その内容は後生に如何に影響を与えるのか、などという長々とした議論を殆ど聞かない。生理医学や物理化学など結果が、人類に多いに貢献していることに比較して。ところが、大江のハードカバー本の全集が、昨年新たに出されるなどということは、彼の小説での実験が、僕にとってはそのひっかりが、又、まだ多くのわだかまりを自問したいと願っている多くの読者の深層の欲求があるからなのだろう。◆僕が彼の作品にはイラつくが、彼という作家が好きなのはなぜか。それはその引用と必死こいた生き様がありありと目に映るように思うからだ。「他からの引用?!」こういう作法で彼が頑張っていれば、僕らは彼と同じようにそれぞれが、個々人の歴史を持って生きている訳だから、例え、それがどんな悲惨と思われる生き様であったとしても、その想像力を持って、そして生きて繋げて行けば、どんな人間も少なくとも退屈しないで生きていけるだろうとの希望を持ったからなのである。***2021年2月17日は今年の灰の水曜日、キリストの苦しまれたレントの季節に入った。今日は日曜、これから教会の礼拝に行こう。


世界のベストセラーを読む(807回) (その5)僕が大江健三郎の小説にイラつく理由

2021-02-21 06:45:29 | 小説

それは、僕の頭がボンクラだからであるというのが第一の原因なのだが。◆第一にどうして、カタカナを使うのか。もともと、彼の作品には、僕には行動を起こすその人の顔がなかなか見えてこないのだが、それが、名前にカタカナを使われると、もともと外来語がカタカタを使うと学んできた僕にとっては、どこかから宇宙人でも来たんかなとしっくりいかないところが多々あった。それとも思考の次元の異なる主人公であるからこのようにカタカナにしたのかなどと。読んでいてひっかかる。◆曹洞宗の住職が、ニルヴァーナという言葉には丸みがあるのに涅槃と書くと角ばっている。漢語の方はカタカナ言葉の方の翻訳であって同じことを指しているとしって面白く思った経験があった(p38)としてもである。村の神話、伝承の一揆をおこす「オコフク」はゴチックでひらがなでは駄目だったのか。それと、先の小林秀雄がコケにして2~3ページで読まないといったが、大江の気に入っている『同時代ゲーム』の冒頭。「妹の・・・きみの恥毛のカラー・スライド。メキシコ・シティのアパートの眼のまえの板張りにそれをピンでとめ、炎のような恥毛の力に励ましを求めながら。」う~む。朝がけにマスタベーションして頭を覚醒させるというような、小説もあったように思ったが、前頭葉をバリバリ働かせようとしていけば、急に肉感的な頭脳の生き物の創生としての間脳にどんと落とし込んでイメージを確認させようとするのか、(こんなちゃちな画像にやる気のイマージを喚起するのか・・・)そのギャップにまさに吐き気がする時があった。若くなけれな読めんな、なのであった。◆引用が多いことも・・・「わたしの作品に外国の詩人や作家、思想家からの引用が多いと批判されることがあるが、それはこういう単純な理由から生じた事態なのである。」と 『二章 ぢゃあ。よろしい、僕は地獄に行こう』(p41)にその理由が書かれている。ぼくにとっては、これは救いにもなった、いや、誰の救いにもなる彼の好きなところでもあるのだが。


世界のベストセラーを読む(806回) (その4)評論家小林秀雄が大江健三郎作品をコケにした理由

2021-02-20 18:03:40 | 小説

◆彼の作品を読み通すには、副読本として写真の『私という小説家の作り方』が必要と書いた理由について。第一には掲題のことを簡単に述べたい。それは、この文庫本(平成13年4月1日初版)の第5章 「この方法を長らく求めた来た」<p95>に書いてあることだ。「同時代ゲーム」という作品の書き出しを書いた後にである。作者はこの書き出しが気にいってたらしく、しかし、先の僕が気分が悪くなるというのが、評論家小林秀雄と無論同じなんてものではないだろうけれど、どうも盆暗の僕の頭では受け付けないと思ったこと。◆僕の思うところの結論を簡単に述べようと思う。小林がコケに評価したこと、それと僕がいらだつことの理由を次回に。(それだけでもいくらもとめどなく書いてしまいそうなのであるが。)それはひとつに、小林が「ベルグソン」をしばし、読んでいた人であるということである。ベルグソンを知っている人は、哲学的にどういう路線の人か知っている筈である。西洋においては、この流れの中で大江が影響を受けたジャン・ポール・サルトルが出てくるのである。大江の引用の中には、無論、この文庫の中にもベルグソンの名前はでてこない。いきなりの飛躍としてサルトルが出現し、文学的に実験をしているように僕には思われてならない。海外の引用は多くあるものの日本の文学の採用が殆どない。大江は60歳を過ぎてもなお、日本古来の美学なんぞに目もくれず、技巧的、恣意的な文学的実験にまい進していることに小林はこれはいかんと思ったのだろうことは推論できる。◆大江は「小説の方法」にとにかく関心を寄せる。であるから「異化」を気にかけ創作を心がけると言う。この作家は引用作品の表層からインスピレーションを受ける。しかし、その評論家は人の創作の深層に迫ろうと常に心がけている人である。大江は、こう述べる。「批評家に頼るよりも、われわれはそういう批評に対して、自分に自ら問うがいい。これは充分に異化されているかと問いかけてみればいいのだ。そのようにして読み直してみて、すぐさま書き直しのペンが動き始めるようであればすでにあなたは小説家である。」(p93) と。あくまで手法に拘るのだ。