◆”はじめに”と後ろの”解説”を立ち読みでも読まれることを希望する。スピノザが人は逃れることが出来ないといった情念と言い、僕が”しがらみ”と呼ぶものと戦う神学者、田川健三。所謂、信仰者ではなくとも未信者の方が読んでも、彼、独特の言い回しはさておいても吹っ飛ぶようなことが書かれた内容です。作品社からの文庫で、文字が小さいのですが、ちと高額なハードカバーもあるが、聖書が読まれ続ける限り、深く学ぼうとする方には、これも読まれ続けること請け合いです。但し、怒られるけど心情としてキリスト教に個人の信仰心とかの追求しようとされる方であれば、いきなり脱線する(つまずく)ので読まない方がいい。◆限りある人が、時代や風習や伝統や諸々なことがらに影響されず、真なるものを伝えんとするとき、まして自国の言葉で書かれなかった新約聖書に、なぜ、例えば日本語に原書に近い訳ですといいながら聖書を翻訳しても、結局のところ訳する人の思い込み意訳が入り込んでしまっているではないか、という強烈な指摘批判である。言われてみると確かにそうなのだ。書かれた言語、ヘブル語やギリシャ語のプロであるので、正しく、ギリシャ語から言えば、あのパウロの書いた手紙でもギリシャ語としては、杜撰で分からないと批判されている。(これは信仰心の批判ではなくあくまで文献学的に言えばいいか)。そうだったな、パウロも確かに純粋なギリシャ人ではなかったし、第一、一応ペテロの手紙にさえパウロの手紙にはよく分からないところがある、と書いているくらいだから。彼の手紙ばかりでなく福音書もへブル的言語使いが影響している内容だと。解説に書かれている内容には僕は唸った。◆先に書いた青野太潮先生には僕でも疑問に思って手紙を書いたくらいだったが、本には著者の住所まで書かれているが、あまたいる神学者もおそらく田川先生には誰も喧嘩は吹掛けないだろう。ところでパウロの「キリストの信」、「信からの義」と実際訳せるギリシャ語には、深い重要な意味が隠れていると思った次第。
◆遠いご先祖が、大陸から渡ってきたか、あるいは、何らかの理由でど田舎に住むようになったか、いずれ僕らが住んで生きて歴史を作ってきたと言うことは、次の世代は何らかの無意識下の血筋や、関係者へ分散したDNAが次世代の影響をあたえているということは、当然、生物学的にも考えられるのですね。先のブログに紹介した荒川鉱山は協和町というところにありあますが、古代、鉱山開発技術を持ち込んだ物部(まさに物つくりに関わった)の集団がその土地にも住みついて来たであろうことに思いを馳せる優秀な方々が居られました。物部長穂という著名な工学士です。◆青森、岩手にはアラハバキ信仰があって、その御神体が”黒鉱”であったとも言われて、これは、古代トルコに創めて”鉄器”を作ったといわれるヒッタイトという部族の持っていた神、ハパルキと似ているのでそちら方面から日本に時代を経て流れ来たものであろうと?・・・。
◆ついでなのですが、菅総理のご出身は湯沢という町ですが、そこからも菅禮治という商工会議所などを創立した方が出ておりました。いずれ、東北の山の中にも、たいそう御優秀な方々が居られて、古代ご先祖が、大陸から来られたり、あるいは都から東北に故合って東北の地に逃れ付いたか、あるいは、まさに天然資源があって、その開発に乗り込んできたとかの様々な理由があって、その地に住みついて、DNAを引き継いでこられたのだろうな。これはあくまで推測にすぎませんが・・・
◆僕は「石ころ」も好きなので表題に書いてはいますが、ぽかぽか陽気で秋田の田沢湖に行きたいと思い、
いつものとおりに車を走らせていると、全然意図せず道に導かれもともと行ってみたいなぁと思っていた
鉱山跡に行きつきました。ここだったかぁという感じで嬉しく・・・。
◆東北の地に鉱山が多数見られます。今は殆ど廃鉱になっていますが、古代の人々の歴史がしのばれます。
僕のもう一つの古代のロマンにも思いめぐらせます。1万年も続いた縄文時代に大陸から日本に渡って来た
採鉱の技術をもった多数の集団が、この日本に大きく貢献しました。蘇我氏と物部氏の争いは知っておられ
るかと思います。東北の地に逃れた物部氏は多くの鉱山開発に貢献しました。龍が彫られた神社が多く見ら
れるのも彼らの精神の礎となっていたものです。(荒川鉱山)
続きます。***「・・・人間はそれぞれの仕方で限界のある存在である。だから、人間を『聖』の水準に持ち上げてはいけない。人間を『聖』の中に閉じ込めてはならない。これを『聖書』に仕立てたのは、自分たちの組織に絶対的な権威を付与したいと思い続けてきた古代末期以降のキリスト教会のやった作業である。彼らは自分たち自身を絶対的な権威に仕立て上げたかったので、それで『聖なる書』を必要とした、というにすぎない。それだけのことなら『聖書』は教会の壁の中にとじこめておけばいいだけのことであるが、そうはいかない。これは人類古代の貴重な文化遺産なのである。・・・それはすべての人々に余計な粉飾なしに、ありのままの姿で公開されないといけない。・・・その後、人が書いている限り、多くの相互矛盾もあるし・・・いくら古代だからといって、ここまで質の低い文書を書くなよ、といいたくなるような代物も、あるいは、月並みを通り越していささか水準の低すぎる説教も、あるいは、こりゃひどすぎるよ、とはっきり言わねばならないものも、等などいろいろある。・・・」***◆ここで相互矛盾の例として弟子ペテロの物言いに対して、イエスの応答がマルコとマタイとでは正反対じゃないかと書いている。その箇所の田川の書き方も次の通り、まま抜粋する。****「相互矛盾の例をひとつだけお目にかける。マルコ8:27ー30並行。同じ事柄についてのイエスの反応をマルコとマタイが正反対に記している。ペテロがよせばいいのにイエスにむかって、自慢げに「あなたこそキリスト(メシア)です」と言ってしまった。・・・そのペテロに対してイエスが腹を立て、「そんなつまらぬ議論をするんじゃないよ、と叱りつけた」、とマルコ福音書の著者は記している。・・・このイエスは明らかに、自分が「メシア」と呼ばれることに嫌悪感を示している。(※僕はそうは読めないけれど、語学が達者ではないので、その意味するところはそういう意図を含んでいる言葉使いなのか?) ところが、マタイはマルコの記事を写しつつ、結論だけは正反対にひっくり返した。マタイのイエスはそのペテロを、「あなたは幸いである。このことをあなたに啓示したのは血肉ではなく、天にいます我が父(神)である」と褒めちぎった、と(16:13-20)。ここまで正反対に他人の文章の結論を作り替えるのだから、たいした度胸である。・・・」***(「新約聖書」 本文の訳 携帯版 作品社<p4> ”はじめに” から)◆面白いでしょ! 田川健三。