9月上旬に発行された日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄に掲載されているコラム「仏像 潜む場所十選」を楽しみに読んでいます。
このコラムの筆者は、京都国立博物館の連携協力室長の浅沼毅(あさぬまたけし、「あさぬま」は旧字表記)さんです。
前回、取りあげた回と順番が遡りますが、2019年10月6日発行の朝刊では、第6回として、京都市下京区の西往寺に祀られている「宝誌和尚立像」(ほうしわじょうりつぞう)を解説しています。
日本経済新聞紙のWEb版である日本経済新聞 電子版でも「仏像 美のひそむ場所(6) 西往寺「宝誌和尚立像」」と掲載されています。
この宝誌和尚立像の顔は「まるで銀杏(ぎんなん)がはじけるがごとくに、おもての僧形が割れて、その下側から十一面観音がのぞいている」と解説されています。
この画像は、宝誌和尚立像の顔の部分だけのものです。印刷物の日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄でも、顔の部分の画像が載っています。顔の部分の画像でないと、詳細が分からないからです。
宝誌和尚(418から514年)とは、中国の南北朝時代に活躍した伝説の僧です。その伝説の僧のエピソードを像にしたものです。
南北朝時代の梁(りょう)の武帝が仏教を崇拝し、画家に命じて宝誌和尚の肖像画を描かせようとしたところ、宝誌和尚はみずからの顔を割いて、下から観音の姿をあらわし、その姿が自在に変化したために、画家は肖像画を描けなかったというエピソードがあるそうです。
この南北朝時代に活躍した宝誌和尚は、10世紀に成立した中国の宋王朝の成立を予言したといわれています。この予言を盛んに喧伝(けんでん)し、宋王朝の正当性を主張する動きによって、宝誌和尚信仰が中国では流行ったそうです。
この流行が、日本にも伝わり、平安時代に宝誌和尚像がつくられたのではないかと推測しています。
宝誌和尚立像は、鉈彫(なたぼり)という、粗いノミ目を残す技法が用いられています。以前は、未完成の像との見方もありましたが、最近ではこの技法が 宝誌和尚の顔の中から十一面観音が姿を見せたその時を表現していると解釈されているそうです。
鉈彫の像は、東日本側に作例が多いそうです。この像もかっては伊豆の寺にあったとも伝えられているそうです。
なお、この宝誌和尚立像は、現在は京都国立博物館が管理しているようです(推測です)。
このコラムの筆者は、京都国立博物館の連携協力室長の浅沼毅(あさぬまたけし、「あさぬま」は旧字表記)さんです。
前回、取りあげた回と順番が遡りますが、2019年10月6日発行の朝刊では、第6回として、京都市下京区の西往寺に祀られている「宝誌和尚立像」(ほうしわじょうりつぞう)を解説しています。
日本経済新聞紙のWEb版である日本経済新聞 電子版でも「仏像 美のひそむ場所(6) 西往寺「宝誌和尚立像」」と掲載されています。
この宝誌和尚立像の顔は「まるで銀杏(ぎんなん)がはじけるがごとくに、おもての僧形が割れて、その下側から十一面観音がのぞいている」と解説されています。
この画像は、宝誌和尚立像の顔の部分だけのものです。印刷物の日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄でも、顔の部分の画像が載っています。顔の部分の画像でないと、詳細が分からないからです。
宝誌和尚(418から514年)とは、中国の南北朝時代に活躍した伝説の僧です。その伝説の僧のエピソードを像にしたものです。
南北朝時代の梁(りょう)の武帝が仏教を崇拝し、画家に命じて宝誌和尚の肖像画を描かせようとしたところ、宝誌和尚はみずからの顔を割いて、下から観音の姿をあらわし、その姿が自在に変化したために、画家は肖像画を描けなかったというエピソードがあるそうです。
この南北朝時代に活躍した宝誌和尚は、10世紀に成立した中国の宋王朝の成立を予言したといわれています。この予言を盛んに喧伝(けんでん)し、宋王朝の正当性を主張する動きによって、宝誌和尚信仰が中国では流行ったそうです。
この流行が、日本にも伝わり、平安時代に宝誌和尚像がつくられたのではないかと推測しています。
宝誌和尚立像は、鉈彫(なたぼり)という、粗いノミ目を残す技法が用いられています。以前は、未完成の像との見方もありましたが、最近ではこの技法が 宝誌和尚の顔の中から十一面観音が姿を見せたその時を表現していると解釈されているそうです。
鉈彫の像は、東日本側に作例が多いそうです。この像もかっては伊豆の寺にあったとも伝えられているそうです。
なお、この宝誌和尚立像は、現在は京都国立博物館が管理しているようです(推測です)。
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄に9月初めに掲載されてたコラム「仏像 潜む場所十選」の中で、この「宝誌和尚立像」が独自の仏像です。
なかなか深い意味合いを感じますね・・
荒んだ世俗を癒やす仏像なのでしょうか。仏にすがるしかない時代だったのでしょうね。
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
日本では、阿弥陀如来像から弥勒菩薩、十一面観音像などと多彩な仏像が木製で作製されています。
そして、運慶などの木製をつくる仏師の工房が生まれ、日本各地のお寺に鎮座されています。
平安時代から鎌倉時代までは、さまざまな仏像がつくられ、祀られてきました。
菩薩や観音以外の多彩な仏像が広がってることは、人々の悩みが多彩になっているからでしょうか・・?
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄に掲載されているコラム「仏像 潜む場所十選」の中で、一番驚いた、2019年10月6日に掲載された西往寺「宝誌和尚立像を取りあげました。
とても驚くのお顔の表現・造形を取りあげました。
当時の高僧は、秘術を持っているように、庶民は考えていたのでしょうか。
あるいは高僧は仏と同じ存在だったのでしょうか・・。不思議な像です。
コメントを重ねてお寄せいただき、ありがとうございます。
今回、日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄に掲載されているコラム「仏像 潜む場所十選」の中で、この宝誌和尚立像のお顔の表現が一番、インパクトがあり、驚きました。
日本の平安時代の方が、この宝誌和尚立像を見て、どんな思いを持ったのか、興味津々です。
京都国立博物館で常設で公開されているのかどうかは不明です。
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
今回、日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄に掲載されているコラム「仏像 潜む場所十選」の中では、この宝誌和尚立像が一番、インパクトがあるものでした。
宝誌和尚と十一面観音の関係はよく分からないのですが・・
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
日本の平安時代は、先進国の中国に遣唐使などを送って、文化や科学技術を学ぶ時代でした。
その中で、中国の南北朝時代に活躍した伝説の僧の像が造られたようです。当時の日本にとっては、仏教面でのさまざまなことを学び、さまざまな宗派が日本に誕生しています。
顔の部分が割れて、その奥からまたお顔がのぞい/るという・・・
中国の南北朝時代に活躍したと言われている僧侶の像なんですね
それを日本で作られたという宝誌和尚像は何とも見てみたいですね
京都国立博物館が管理されているのですね
中国の南北朝時代の高僧の伝説を表わした仏像なのですね。
平安時代の日本にとっては。中国は先進国であり、文化の発祥地だったことを物語っています。
これはまた凄い仏像ではありませんか。
思わず合掌をさせていただきました。
なんでも知らないことは勉強になりす。